2007年11月5日月曜日

「それでも生きる子供たちへ」

 ユニセフと国連世界食糧計画が後援した子供をテーマにしたオムニバスで、ルワンダ、セルビア・モンテネグロ、アメリカ、ブラジル、英国、イタリア、中国の七ヶ国の監督が参加している。どれも可哀想な子供の話だが、淡々とした語り口だけに余韻が残る。
 メディ・カレフの「タンザ」はルワンダの少年兵の話。大きな銃を脇にジャングルを書きわけて進む少年兵たちの眼光の鋭さにたじろぐ。この小隊ができて二年たつが、最初のメンバーは隊長とタンザしか生き残っていない。少年兵は使い捨てなのだ。
 小隊は敵の村に時限爆弾をしかける任務を命じられ、少年兵たちは爆弾のはいったバッグを下げて村に侵入する。タンザも受け持ちの建物に忍びこむが、そこは小学校だった。爆弾をしかけることを忘れて黒板を見つめるタンザ。
 エミール・クストリッツァの「ブルー・ジプシー」は得意のロマもの。少年院にはいっているマルヤンは出所が迫っているのに浮かない顔。少年院の中にいれば盗みをしなくてすむが、娑婆に出たらまた盗みをしなくてはならないからだ。
 マルヤンを迎えに家族がけたたましいロマの音楽を演奏しながらやってくる。駅の待合室では即興の演奏でみんなを浮かれさせ、その隙に子供たちに金を盗ませる。家族ぐるみ泥棒で暮らしているのだ。
 出所したマルヤンは父親から車上荒らしをしてこいと殴られ、早速盗みにいく。ドアを開ける手際が実に手慣れている。しかし、すぐに見つかり、追いかけられる。彼は少年院の塀を乗り越え、また中に。
 スパイク・リーの「アメリカのイエスの子ら」はブルックリンのスラムに住むブランカという黒人少女の話。両親はジャンキーだが、娘の前では麻薬は隠そうとしている。しかし、麻薬を射って死んだように横たわっている姿は隠そうとしても隠せるものではない。
 ブランカは母親から決まった時間にビタミン剤を飲むようにいわれているが、学校ではしばしば具合が悪くなり、微妙に敬遠されている。彼女は母体内でHIVに感染したエイズ・べービーだったが、そのことを知らされていないのだ。
 彼女は体調の悪化と周囲の微妙な視線、両親のひそひそ話から自分がエイズではないかと疑いはじめる。ブランカを演じる少女が愛らしい。
 カティア・ルンドの「ビルーとジョアン」はファベーラと呼ばれるブラジルの貧民窟でたくましく自活する兄妹の話。ファベーラでは廃品回収の仲買人がリアカーを貸して貧乏人に廃品を集めさせているが、ビルーとジョアンも大人に混じってリアカーを引いて街に出る。
 兄のビルーが思いつきで作ったゲームが街頭で人気を集め、予想以上の収穫があったが、週末なので時間までに仲買人のところにもどらなければせっかくの収穫がふいになる。兄妹は思いリアカーを引いて急ぐが、片方のタイヤがパンクしてしまう。修理してもらってやっと帰りつくが、すでに門は閉じていた。兄妹は必死で開けてくれと叫ぶ。
 「ジョナサン」のジョーダン・スコットはリドリー・スコットの一人娘で、父親との共同監督作品。PTSDで戦場カメラマンを廃業したジョナサンが故郷の森の中で経験する幻の戦争の話。ジョナサンは気がつくと子供にもどっていて、見知らぬ少年と少女に導かれて川沿いをさかのぼっていくと、硝煙の立ちこめる戦場に出る。この作品だけ、質が落ちる。
 ステファノ・ヴィネルッソの「チロ」はギャングに操られる子供窃盗団の話。
そこで彼らはボスにささやかなお願いをする―。
 ジョン・ウーの「桑桑ソンソン小猫シャオマオ」は金持の娘桑桑が車から捨てたフランス人形を貧しい孤児の小猫が拾い、それが縁で二人が出会う話。

「ツォツィ」

 アソル・フガードという南アフリカの劇作家の同題の小説をギャヴィン・フッド監督が映画化。南アフリカの映画ははじめて見た。
 ヨハネスブルクの悪名高いスラム、ソウェト地区で育ったツォツィと呼ばれる青年が主人公である。ツォツィとはならず者という意味のよし。最初に通勤電車で実行される情け容赦のない犯行が描かれるが、かっこのつけ方がわざとらしいというか、一昔前の日活映画に似ている。
 ツォツィは次に裕福そうな若い黒人女性の運転するBMVを狙う。豪邸の門を開けるために降りたところを襲い、乗り逃げしようとするが、女性が追ってきたので銃弾を浴びせて殺してしまう。
 彼女が車に追いすがったのは赤ん坊が中で寝ているからだった。ツォツィは赤ん坊は殺せず、いっしょに連れて逃げまわることになる。
 映画の作り方としては古風で鼻白む部分があるが、直球勝負のよさがある。音楽の迫力は特筆もの。

2007年11月3日土曜日

「ベルト・モリゾ展」

 損保ジャパン東郷青児美術館でベルト・モリゾ展を見た。すばらしかった。
 ベルト・モリゾはマネの女弟子で、「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ」など名画のモデルをつとめたことでも有名だが、近年になってもっとも印象派らしい印象派として再評価が著しい。日本では昨年ようやく画集が出版されたところで、大規模な展覧会としてはこれが最初である。なお、画集は一冊だけなのに、評伝はドミニク・ボナの『黒衣の女ベルト・モリゾ』と坂上桂子の『ベルト・モリゾ―ある女性画家の生きた近代』の二冊が出ている。作品よりも人物に対する興味が先行している段階のようである。
 彼女はマネの弟のウジェーヌと結婚し、ジュリーという娘をもうけているが、ジュリーを描いた絵が柱となっており、赤ん坊の頃から成人するまで、ほぼ成長を追って展示されていた。母になる前の絵はところどころ才気走ってはいるが、それほどおもしろくない。彼女の才能が本当に開花するのは母になってかららしい。
 ジュリーは母親に匹敵する美貌のもちぬしで、絵から絵に移るにしたがい、愛くるしい少女から臈たけた娘へと開花していく。十代後半のジュリーを描いた「夢見るジュリー」は白いドレスに長い髪を垂らし、物憂げな視線をこちらに投げる。象徴派の世界である。白鳥がよく出てくるのも、象徴派の影響だろうか。
 羊飼の娘のヌードの油彩と下描きがあった。麦わら帽子をかぶり、地面に伏せて横たわった姿だ。顔をはっきり描いておらず、ジュリーの年齢と近いところからひょっとしたらと思ったが、図録を見るとガブリエル・デュフールという娘がモデルだそうである。自分の娘と近い年齢の少女をモデルに選ぶというのはどういうことなのだろう。
 晩年はタッチが大胆になり、ほとんど走り描きに近く、軽みの境地を感じさせる。後期印象派とは対蹠的だが、印象派の初発の方向を突きつめるとこうなるのかもしれない。
 ウジェーヌの死後、マラルメがジュリーの後見人をつとめたことからもわかるように、彼女はフランス象徴派の詩人たちと親しかった。ジュリーと姉妹のように育った従姉妹のジャンニはマラルメの弟子のヴァレリーと結婚している。描かれている日常風景を見るとモリゾ家もマネ家も大ブルジョワであって、ヴァレリーが今でいう逆玉婚といわれていたのは事実だったのだなと思った。ヴァレリーは国葬をもって送られるほどのフランス文化の代表者となるが、『若きパルク』で文壇に再デビューするまでは目立たない安月給とりにすぎなかった。こんな華麗な一族の中ではさぞ肩身が狭かっただろう。

2007年11月2日金曜日

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」

 社会現象にまでなったTVシリーズを4本の劇場用映画に作り直すシリーズの一本目である。台本はもちろん、カット割りまで忠実に再現しているよし。21世紀の話なのにテープ式のウォークマンだったり、携帯電話ではなく公衆電話だったりする部分もそのままになっていて、十年という時間を感じさせる。
 「ヱヴァンゲリヲン」は再放送を録画したりして何度か見ようと試みたが、数回分見ただけだった。学園もの的部分が鼻について、はいりこめなかったのだ。
 映画館という逃げ場のない場所で見れば、いやでも見通すことになるので見てみたが、若い人に受けるように上手く作られていることがわかった。思春期の危ない部分をスパイスに使うとか、よく出来ているとは思うが、学園もの的な趣向にどうしても異和感を感じる。若い人にはそこがたまらないのだろうが。

2007年11月1日木曜日

「スターダスト」

 ニール・ゲイマンが1997年に発表した同題のファンタジーをマシュー・ヴォーンが映画化。
 映画ファン感謝デーなので、一番すいてそうなこれを見たが、意外によかった。ありきたりのファンタジーではあるが、豪華キャストだし、特撮はよくできているし、もっと評判になってもいい映画だと思う。
 ウォール村の青年トリスタン(チャーリー・コックス)は魔法の国ストームホールドの王女と人間の男の間の子供だったが、自分が高貴な生まれだとは知らず、村一番の美女のヴィクトリア(シエナ・ミラー)に恋していた。ヴィクトリアは金持の息子の方に気があり、トリスタンなど眼中にないが、彼は愛を示すために、ちょうど地上に落ちてきた流れ星を結婚指輪の代わりに一週間以内に持ってくると誓い、村はずれの壁を越えて妖精の国に旅だっていく。
 おりしもストームホールドでは王(ピーター・オトゥール)が亡くなり、トリスタンにとっては伯父にあたる七人の王子の間で王位継承の争いがはじまっていた。王位につくには王位継承の徴であるルビーを手にいれなければならないが、ルビーは天空高く飛び去り、星を一つ流れ星に変えて地上に落下したのだ。
 トリスタンは父から母の形見としてもらった魔法の蠟燭によって流れ星の落下地点に瞬間移動するが、流れ星はイヴェイン(クレア・デインズ)という美女に姿を変え、王位継承のルビーを胸にかけていた。彼はイヴェインを連れて人間世界にもどろうとするが、ルビーをねらう王子たちと、流れ星で若返ろうとする老いた魔女(ミシェル・ファイファー)が三つ巴になってイヴェインを奪いあう。
 冒険の途中には、ほとんど必然性がないのに、キャプテン・シェイクスピア(ロバート・デ・ニーロ)率いる空飛ぶ海賊船がからんでくる(明らかに『天空の城ラピュタ』のパクリ)。
 ミシェル・ファイファーが恐怖の老けメイクを披露したり、デ・ニーロが女装趣味の船長を楽しそうに演じたりとサービスたっぷりで楽しめる。
 ヒロインのクレア・ディンズが意外によかった。デインズは好きではなかったが、『エターナル・サンシャイン』とこの作品で見直した。
 バルトという新宿東映の跡地にできた丸井の中のシネコンで見たが、音響がすばらしかった。端席だったのに、音がばっちり定位したのだ。録音もいいのだろうが、最近の音響設備はすごい。

2007年10月31日水曜日

「自虐の詩」

 業田良家の漫画を堤幸彦が映画化。「自虐」は「あい」とも読む。
 非現実的なくらい不幸な女性を中谷美紀がまたもコミカルに演じていて、『嫌われ松子の一生』と完全にかぶっている。中谷美紀はマゾなのかと疑いたくなるが、映画としてはこちらの方が格段におもしろい。堤幸彦作品の中でも一番いい(というか、はじめておもしろいと思った)。
 物語は幸江の中校時代からはじまる。幸江は貧しい家計を助けるために新聞配達をしていたが、家にもどってみると警察の車が。父親(西田敏行)がまぬけな銀行強盗をやって逮捕されたのだ。犯罪者の娘になってしまった幸江は気仙沼にいられなくなり、唯一の親友である熊本さんに見送られて上京する。
 十数年後、幸江は元ヤクザのイサオ(阿部寛)と、大阪の通天閣の見える下町で暮らしている。イサオはパチンコ三昧で働かず、気にいらないことがあるとすぐに卓袱台をひっくりかえす。幸江はラーメン屋でアルバイトをして、ひたすらイサオに尽くしている。
 どん底話と平行してイサオとのなれそめが語られるが、どちらも予想通りのベタな話である。意外性はまったくないが、それでもおもしろいのは中谷美紀の不器用さというか社会との異和感が画面ににじみでているからだと思う。彼女は柴咲コウとよく間違えられるそうだが、柴咲コウがこの役をやったらウソになってしまう。この映画は中谷美紀だからこそ成立している。
 DVDは来年3月発売だが、中谷美紀の撮影日記ナビゲートDVDが出ている。

2007年10月30日火曜日

「たとえば野に咲く花のように」

 新国立劇場中劇場で鄭義信作、鈴木裕美演出の「たとえば野に咲く花のように」を見た。
 新国立劇場は今年7月、芸術監督が栗山民也から鵜山仁に交代したのを機に「三つの悲劇」と題して、ギリシャ悲劇を現代日本に翻案した新作三本を上演する。「たとえば野に咲く花のように」はその第二作にあたる。
 舞台は1951年夏の九州の場末のダンスホール。下手に玄関。中央下手寄りに大きな階段。上手寄りにバーのカウンター。上手には窓が大きく切られている。二階はダンサーたちの個室で、そこで客をとるようになっている。
 港町という設定で、町は朝鮮戦争特需で景気がいいが、表通りに特需成金の安部康雄(永島敏行)が立派なダンスホールを開店したので、こちらは閑古鳥が鳴いている。ダンサーは三人に減り、マザコン気味の自衛隊員など、常連にたよって細々と営業している。
 ヒロインの安満喜(七瀬なつみ)は弟と二人暮らしだが、弟は戦時中、憲兵だった引け目から北朝鮮に肩入れし、米軍妨害工作にくわわっている。
 ある夜、弟の仲間がライバル店の支配人の直也とオーナーの康雄に追われてダンスホールに逃げこんでくる。満喜は彼をかくまい、一歩も引かずに毅然と応対するが、康雄は満喜の気っ風に惚れ、毎晩通ってくるようになる。
 康雄は満喜に結婚を迫るまでになるが、満喜は日本軍に志願して南方で死んだ婚約者が忘れられず、申し出をはねつける。
 康雄の婚約者のあかね(田畑智子)は康雄の心変わりにアル中になり、店に怒鳴りこんできたりするが、まともにとりあってもらえない。あかねを慕う直也はあかねの心中を察して、康雄に刃を向けるが……。
 ラストは意外にもハッピーエンド。三人のダンサーはそれぞれ妊娠してダンスホールを去っていく。女はたくましい。
「アンドロマケ」をもとにしているというが、どこが「アンドロマケ」なのか首をかしげた。朝鮮戦争で儲けた成金と朝鮮人娼婦の話なので、まったく無関係とまではいわないが、当時の在日韓国・朝鮮人は自分たちを戦勝国の一員と思いこんで傍若無人にふるまっていたわけで、亡国の王妃に見立てるのは話が違う。
 しかし、朝鮮戦争当時の荒くれた世相を描いた風俗劇としてはよくできている。あれこれあっても、結末は希望を感じさせる。
七瀬なつみは鉄火肌の娼婦を熱演し、新境地を開いた。出番はすくなかったが、アル中のお嬢様を演じた田畑智子の可愛らしさは特筆したい。彼女のためだったら、直也が狂うのも無理はない。

2007年10月25日木曜日

情報通信法、官の言い分

 ICPFセミナー「通信・放送の総合的な法体系を目指して」を聴講してきた。講師は情報通信法を担当する総務省情報通信政策局総合政策課長の鈴木茂樹氏で、やる気むんむんというか、50年に一度の大改革を手がける喜びに舞いあがっている印象を受けた。制度をゼロから設計する機会にめぐりあえたのは役人冥利に尽きるといったところか。
 鈴木氏は情報通信法はあくまでもIT産業振興のための規制緩和であり、新たな規制でしばろうとするものではないと熱弁をふるった。レイヤー型法体系という世界最先端の法体系を整備することで日本のIT産業が復活すれば、他の国も日本に倣うようになり、いち早くレイヤー型法体系に慣れた日本企業の国際競争力が高まるとも説いていた。ほとんど新制度のセールスマンである。
 講演の部分はどこかで読んだような話ばかりで新味はなかったが、質疑応答はおもしろかった。
 まず、資料中の怪しげな数字に突っこみがはいった。鈴木氏の講演は日本のIT産業に対する危機感を煽り、その処方箋として情報通信法を持ちだすという趣向になっているので、資料にはセールストークというか、素人だましの数字がまじっているのである。今回配布された資料は他の機会でも使われてきたと思われるが、具体的な指摘に鈴木氏はあわてていた。
 こんなドラスティックな改革が本当にできるのかと先行を疑問視する声も出た。講演では各界から寄せられたパブリック・コメントの傾向が紹介されていたが、中でも放送界は警戒感を隠さず、断固反対の構えのようである。鈴木氏は放送界について、地方局は遠からずやっていけなくなるという意味の見通しを語った。県域免許制の矛盾は多くの人が指摘しているが、総務省の担当者自身が婉曲ながら、地方局の自滅の可能性に触れた意味は重い。
 コンテンツ規制や著作権については情報通信法の範囲外といわんばかりの答えをしていた。
 情報通信法は産業政策だとしきりに強調していたが、では遅れた法体系で動いているアメリカがなぜ強いのか。レイヤー型法体系に変えて、本当に産業振興になるのか。その辺りの明確な答えはなかった。

2007年10月24日水曜日

「毛皮のエロス」

 女流写真家ダイアン・アーバスの生涯を題材に、勝手な妄想をくりひろげた贋伝記映画である。パトリシア・ボズワースの『炎のごとく―写真家ダイアン・アーバス』が原作ということになってはいるが、半分以上はフィクションといっていい。
 ダイアン(作中では「ディアン」と発音)は百貨店主の娘として生まれて何不自由なく育ち、ファッション写真家のアラン(タイ・バーレル)と結婚してからは撮影のアシスタントをつとめ、二人の娘を育てるという、健全きわまりないアメリカ女性だった。
 しかし、良妻賢母の生活だけではエネルギーをもてあまし、彼女はしだいに気鬱に陥っていった。
 そんな時、一つ上の階にライオネル(ロバート・ダウニーJr)という謎の男が越してくる。夏なのにコートを着こみ、目出し帽のようなマスクをかぶり、こっそり出入する。しかも、奇型の客が人目を避けてしょっちゅう訪問しているらしい。
 彼女はライオネルの正体をさぐろうとし、多毛症という奇型であることをつきとめるが、その頃には彼に引かれるようになっていた。彼女は精神的な不倫関係におちいり、フリークスの世界に導かれていった。
 健康なアメリカ女性が異形の男に惚れたばかりに頽廃の世界にのめりこんでいったというストーリーになっているが、これはニコール・キッドマン主演を前提にした当て書きだろう。
 実際のダイアンはニコール・キッドマンとは似ても似つかない東欧ユダヤ人の顔をしていて、大きな愁いを帯びた眼はカフカを思わせないではない。ダイアンの兄はハワード・ネメロフという一家をなした詩人であり、一族には気鬱症をもっている者が多いというから、芸術的天分というか病気の要素は生来のものといえよう。
 困ったことに、この映画、かなりおもしろいのである。ダイアン・アーバスはこの映画のような女性だったと誤解する人が増えそうだ。ダイアンの遺族は伝記の類をかたくなに拒否しているということだが、よくこの映画を許可したものだ。
 彼女の作品集は筑摩から出ていたが、現在は絶版である。アメリカ版なら"An Aperture Monograph"、"Magazine Work"などがペーパーバックで入手できる。

「ボッスン・ナップ」

 黒人英語で娼婦の元締のことを「ピンプ」というが、そのピンプの一代記である。主演のスヌープ・ドッグはラップ界のスーパースターだそうである。ラップはまったくわからないが、この映画はおもしろい。
 コーデー(ドッグ)はしがないスーパーの店員だったが、なぜか女にはもてた。ある日、オレンジ・ジュース(ホーソーン・ジェームズ)という高名なピンプが豪華なリムジンを乗りつけてきてコーデーを招ききれ、お前にはピンプの才能がある、これはという女を見つけたら力になってやってもいいと申しでる。
 コーデーはシャルドネ(シラエ・アンダーソン)という上玉の女と出会い、ピンプになる決心をする。オレンジ・ジュースの教えを忠実に守り、かかえる娼婦をどんどん増やして業界の注目を集め、ピンプの全米大会でその年の最優秀ピンプに選ばれるまでになる。
 成功とともに慢心が生まれる。女に本気で惚れるなというオレンジ・ジュースの教えを破り、シャルドネと結婚を決意したのだ。二人で街を出ようと矢先、悲劇が起こる。かつてコーデーに娼婦を奪われたピンプがシャルドネを刺し殺したのだ。コーデーはシャルドネの仇をとり、殺人罪で下獄する。獄中で歌う悲しみと悔恨の歌は泣かせる。
 コーデーと喧嘩別れしたオレンジ・ジュースは腑抜けのようになって出所してきた彼をあたたかくむかえる。コーデーは再びピンプ稼業をはじめ、オレンジ・ジュースの片腕となって後進を指導する立場になる。
 オレンジ・ジュース役のジェームズはピンプ界のヨーダという貫禄で、かっこいい。ピンプ道なんてあるはずもないが、あるかのように大真面目に作っているところが笑える。
 黒人しか出てこない映画で、全編ブラック・ミュージックが横溢している。ゴージャスさと安っぽさがいりまじり、ギトギトに脂っこくて最初は戸惑ったが、すぐに引きこまれた。愛すべき小品といえよう。


2007年10月23日火曜日

「NARA:奈良美智との旅の記録」

 不機嫌な少女像でおなじみの画家、奈良美智のドキュメンタリーで、2005年6月のソウルの個展から2006年7-10月に青森県弘前市で開催された「A to Z」展にいたる500日間を追っている。この間に奈良は横浜、ニューヨーク、大阪、ロンドン、バンコクで個展を開き、さらにアトリエを引っ越している。
 アトリエといっても、陽光の燦々とはいるアトリエを想像してはいけない。ニューヨークのアーティストが使っているようなだだっ広い倉庫ともちがう。商店街の空き店舗を借りているらしく、出入り口は引きあげ式のシャッターだ。壁は広いが、雑然としている。外光ははいらず、しけた蛍光灯をつけて仕事をしている。
 村上隆のアトリエを紹介したTVを見たことがあるが、助手がたくさんいて工務店の作業場みたいに活気があった。村上隆は中小企業の社長のように貫禄たっぷりだったが、奈良は一人だけで刷毛を動かし、しばしば考えこみ、学生のように自信なさげだ。
 製作は孤独な作業だが、個展はちがう。会場スタッフや観客が係わってくるのはもちろんだが、奈良の場合、会場の中に小屋を作り、その中に展示するスタイルをとるようになったので、小屋を作るスタッフが参加しているのだ。
 小屋の製作は grafという大阪に本拠をおく会社が担当している。grafは「クリエイティブユニット」を名乗っているが、ふだんはおしゃれなレストランやバーの内装を手がけているらしい。個展の準備がはじまると、grafの豊嶋は奈良にマネージャーのようにつきそっている。grafのスタッフは若く、学生サークルの延長のように見えなくはない。
 さて、「A to Z」展である。この展覧会は奈良の故郷である弘前市で開かれた。会場となったのは酒造会社の煉瓦造りの倉庫で、架空の街並を作りあげるという、小屋を使った展示の集大成というべきものだったようだ。grafだけではできないので、全国からボランティアを募り延べ4600人が参加したそうだが、映像で見る限り、ほとんど学園祭のノリだ。奈良の作品は一枚数千万円はくだらないらしいが、こんなに日常的な場所で作られていたのである。
 ファンとの交流場面が出てくるが、まったくアイドル化している。特に韓国の女性ファンはミーハー気質まるだしだ。彼らは絵は買えなくても、奈良グッズをどっさり買っていく。
 村上隆の作品もそうだが、奈良も複製時代の申し子で、アウラなしの作品で勝負しているということか。

「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」

 建築家フランク・ゲーリーのドキュメンタリーで、親友のシドニー・ポラック監督が自らビデオカメラをまわしているが、映画館で見るほどの出来ではなかった。
 フランク・ゲーリーが何者か知識なしに見たが、助手に指示して紙で模型を作らせ、それを修正させていく。修正も自分で手を出すことはめったになく、言葉で指示して助手にやらせている。大家だから自分で図面を引くことはないと思っていたが、なにからなにまで助手まかせだった。
 紹介されるゲーリーの建築はどれも変わった形をしているが、若い頃は当然、仕事の依頼がなく、運転手をやって糊口をしのいだり、突飛な自宅を設計してアピールしたりといろいろあったようだ。ゲーリーの建築を愛するというセレブたちがインタビューに答えているが、みな俗臭芬々である。建築という世界は俗っぽくなくてはやっていけないのだろう。

2007年10月22日月曜日

ダーリンはユダヤ人?

 最近、NHK BS2の「奥さまは魔女」にはまっている。4月くらいに第1シーズンから放映をはじめたらしいが、7月に気づき、以来、録画して見ている。
 白黒時代の初放映時に最初の方は見ているが、今見ても最高に面白い。半世紀近くも前に、カラーでこんなTVドラマを作っていたことに驚かされる。アメリカでは途切れることなく延々と再放送をくりかえしているそうだが、それもうなづける。
 今、タバサがよちよち歩きをはじめたところだが、アダムという男の子も産まれるようだ。全254話もあるそうで、昔見たのは第3シーズンくらいまでだったと思う。お向かいのグラディスさんの女優が交代したことは憶えているが(最初のアリス・ピアースが断然よかった)、ダーリン役のディック・ヨークが降板したのは知らなかった。驚いたことに、成長したタバサを主人公にした番外編まで作られていた。
 一つ、気になっていることがある。スティーブンス家の玄関の脇に大きな七枝燭台が飾ってあることだ。ダーリンはユダヤ人という設定だったのだろうか。
 いろいろ検索したが、そういう指摘をしているページは見つからなかった。七枝燭台は統一協会も使っていることがわかったが、スティーブンス家には多宝塔や壺は見当たらないし、1964年という製作年代を考えると、ダーリンとサマンサが合同結婚式で結ばれた可能性はないと思う。
 となると、ダーリンはやはりユダヤ人か。アメリカは進化論裁判の国なので、いくらコメディでも、キリスト教徒と魔女を結婚させることにはさわりがあるということだろうか。
 「奥さまは魔女」の蘊蓄を集めた『「奥さまは魔女」よ、永遠に』という本が邦訳されているそうだが、それを読めばはっきりするのだろうか(邦訳は絶版なので原書を読むしかないが)。英語では"The Magic Of Bewitched Trivia And More"という本も出ているようだ。英語となると、ちょっと億劫である。誰か知っている人がいたら教えてほしい。

「長江哀歌」

 「世界」の賈樟柯監督のヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞作。「世界」は北京に出てきた若者の話で、それなりに希望があったが、こちらは三峡ダムで建設ラッシュにわく地域に人探しに来た中年男女の話。題名からすると長江の雄大な景色が出てきそうだが、埃と汗の臭いの立ちこめる工事現場や貧民街ばかりで、観光映画的な趣向はまったくない。
 山西省の炭鉱で働くハン・サンミンは16年前に出ていった妻の実家を尋ねて長江の村にやってくるが、そこはすでに湖の底に沈んでいた。サンミンはダム湖際の安宿に泊まり、飯場で働きながら妻と一人娘を探そうとする。やっと船で働く妻の兄を見つけるが、けんもほろろに追いかえされる。サンミンの妻は嫁不足から金で買った妻で、田舎の暮らしに耐えられず、実家に逃げ帰った経緯があるからだ。娘にどうしても会いたいというサンミンに、義兄はあれはお前の子供ではないと言い放つ。それでもサンミンは娘に会いたいという気持ちを断ち切れない。
 一方、やはり山西省で看護婦をしているシェン・ホンが出稼ぎにいったまま音信の途絶えた夫を探しに長江へやってくる。ホンは夫の軍隊時代の親友のワン・トンミンを訪ね、夫の職場に案内されるが、多忙を理由に会ってもらえない。夫はやり手の女社長に気にいられ、不動産デベロッパーの現地責任者に抜擢されていたが、違法の住民立ち退きなど阿漕な仕事に手を染めていた。ホンはそんな事情は知らず、会おうとしない夫に不安をつのらせる。
 国家プロジェクトの進む三峡地域には多くの寄る辺ない人が吹きよせられてきて、貧富の格差が剥きだしになっている。取り壊しと建設とマネーゲームで人心はすさんでいるが、それでも人情がわずかに残っていて、賈監督は二人の外来者の目を通して、そのわずかに残った人情を描いている。真面目に作られているが、「世界」のような華はなく、疲労感ばかりが残った。

2007年10月21日日曜日

「日本SFの50年」

 NHKのETV特集で「日本SFの50年」が放映された。50年というのは「宇宙塵」創刊から50年なのであるが、日本SF作家クラブの活動を中心にしていた。
 番組は福島正実=石川喬司が原型を作った日本SF史をなぞる形で進行したが、最初の場面は故大伴昌司氏の旧宅だった(書斎が生前そのままに保存されている!)。
 大伴昌司氏は「ウルトラQ」や「ウルトラマン」の企画に係わったオタク文化の父ともいえる人である。大伴氏の仕事は多岐にわたるが、中でも少年サンデーの巻頭二色ページを飾った怪獣の解剖図鑑は人気を博し、最近も復刻版が出ている。亡くなったのは1973年だが、荒俣宏の『奇っ怪紳士録』にとりあげられたり、『OHの肖像』という評伝が出ていたりするので、若い人の間でも知られているだろう。
 番組はアニメやマンガ、ゲームなど、世界を席巻する日本のオタク文化の形成にSF作家たちがどのように係わったかをテーマにしていたから、大伴氏に注目したのは正解だが、SF作家が小説以外の分野に向かったのは文壇で無視されたのが一因だった。「士農工商犬SF」とは当時のSF人の自嘲まじりの口癖だった。SF作家のホームグラウンドはSFマガジンであり、星新一を別にすると単行本は早川書房からしか出せない時代があったのである。
 それだけにSF作家クラブは強く団結していた。わたしがSFマガジンを買いはじめたのは1967年からだったが、SF作家クラブの動向がよく載ったし、SFが「迫害」される事例があると、福島正実がすかさず「日記」に被害者意識まるだしの反論を書いたものだった。
 SF作家の団結が頂点をむかえたのは1970年の大阪万博にあわせて開催された「国際SFシンポジュウム」だった。わたしは当時、高校生だったが、科学技術館ホールで開かれたイベントにいき、生クラークや生メリルの挨拶を聞き、野田大元帥演出のブラッドベリの詩の朗読に晴れがましい気持ちになった。万博の企画にSF作家が動員されたということもあるが、設立からわずか7年のSF作家クラブによくあれだけのシンポジュウムが開けたものである。
 その後に「拡散と浸透」の時代がくる。万博を通じて社会的地歩をえたSF作家たちは肩を寄せあう必要なくなり、夫々独自の道を歩みだしたわけだ。
 筒井康隆氏が威信をかけて開いた1974年の神戸SF大会にはワセダミステリクラブの仲間たちとともに参加したが、その時のテーマが「SF、その拡散と浸透」だった。当時は「SFの危機」と大真面目に考えられていたが、今にして思えば、手塩にかけて育てた作家が大出版社に流出したという「早川書房の危機」にすぎなかった。
 今回の番組は基本的に福島正実=石川喬司のハヤカワ史観をなぞっていたが、大伴昌司氏というもう一つの軸を設定したことで、ハヤカワ史観では見えなかったSF作家たちの小説以外の活動に光をあてていたことは評価したい。

「文豪・夏目漱石展」

 江戸東京博物館で「文豪・夏目漱石展」を見た。老人で混んでいたが、若い人も多かった。『直筆で読む「坊っちやん」』なんていう本が新書で出るくらいで漱石人気は健在だ。
 原稿や初版本、書簡、写真あたりは定番だが、辞令や英国で買い集めた蔵書、落書き、衣服、デスマスクまでならべててある。よくこんなものもまで保存していたものである。骨格からコンピュータで推定した復元音声が流れていたが、夏目房之助よりも白井晃の声に似ていた。
 岡本一平の描いた漫画の漱石像は有名だが、実は連作になっていて、そのすべてが展示してあった。これが一番おもしろかった。
 漱石にはユーモラスな面と不機嫌な面の両方があると思っていたが、不機嫌な面しか感じられなかった。晩年に近くなると陰気な印象がさらに強まり、修善寺の大患から先は重苦しくさえ感じられた。

2007年10月20日土曜日

王の角度

 「日立世界ふしぎ発見」の「パリ エジプト化計画」はおもしろかった。フランス第二帝政期のエジプト・ブームがテーマで、お約束のフリーメイソンの話も出てきたが、パリの歴史軸とルクソール神殿の中心軸がどちらも途中でずれているという指摘が興味深かった。
 これまでは自然条件が原因で曲げたということで片づけられてきたが、どちらもずれも6度で平面図を重ねるとぴたりと一致する。
 6度という半端な角度が偶然に一致したとは考えにくい。オスマンがパリ改造の青写真を引いたのはルクソール神殿が『エジプト誌』で詳しく紹介された後だから、ルクソールに倣おうとした可能性はあながち否定できないだろう。
 では、なぜルクソール神殿の中心軸は6度ずれているのか。ナイル河の屈曲にあわせたということになっているが、本当にそうなのか。
 ここで「王の角度」という吉村作治氏の仮説が登場する。ファラオは夫々自分の角度をもっていたというのである。
 吉村氏は「王の角度」の例として屈折ピラミッドをあげている(遊学舎の「エジプト博物館」)。屈折ピラミッドは従来は建造技術が未熟だったために、急勾配では崩れる恐れがあったので途中から勾配をゆるくしたと説明されていたが、吉村氏は施主であるファラオが変わったので、勾配の角度が変わったとしている。
 屈折ピラミッドは勾配が変わっているだけでなく、入口と玄室が二組ある特異なピラミッドであることを考えると、「王の角度」という説は説得力をもってくる。
 ルクソール神殿は第18王朝のアメンヘテプ三世と第19王朝のラムセス二世が大半を作ったが、中心軸のずれはアメンヘテプ三世建築部分とラムセス二世建築部分の境目で生まれていた。しかも、アメンヘテプ三世とラムセス二世の陵墓の中心軸を調べたところ、6度ずれていたのである。「王の角度」という説がどこまで認知されているのかはわからないが、実に魅力的な説である。


 テンプル騎士団はフリーメイソンとならぶ西洋陰謀史観の二大震源地だが、17世紀末以降行方不明になっていたテンプル騎士団の裁判記録をヴァチカンが300年ぶりに公開するという(technobahnbreitbartCatholic News Agency)。
 所在がわからなくなっていたのは目録の記載が曖昧だったためだそうで、保存状態はきわめて良好らしい。公開された文書は300ページにおよび、ヴァチカンと関係の深いScrinium社が799部限定で売り出すという。価格は1セット96万円(!)。『ダ・ビンチ・コード』人気もあるから、数年もすれば一般向けの本が登場するだろう。
 テンプル騎士団の存在を知ったのは、御多分に漏れず、澁澤龍彥の『秘密結社の手帖』でだった。澁澤が生きていたら、この史料をどう料理しただろうか。

2007年10月18日木曜日

『電脳社会の日本語』が絶版に

 文藝春秋社から『電脳社会の日本語』を10月いっぱいで絶版にするという連絡が来た。
 在庫数を見たところ、予想より1桁すくなかった。千部か二千部売れ残っているだろうと思っていたが、発行部数の1%未満しか残っておらず、ほとんど売れたことになる。
 この本は営業部が売れると勘違いしてくれたおかげで、通常の部数よりかなり多く刷ったが、文字コードなどというディープなテーマが文春新書の読者層とあうはずはなく、最初の一ヶ月は惨憺たる売行だった。その後、中村正三郎氏が褒めてくださったおかげで最悪の結果はまぬがれることができたが、決して売れた本ではない。
 7年かかって売りきったのならめでたいことであるが、途中で在庫の圧縮がおこなわれた可能性もなくはない。聞けばわかるが、こういうことは気にはなっても知りたくはないものだ。
 まる5年かけて書いた本だけに、いくばくかの感慨はある。文字コードという泥沼のような問題にはまりこんで悪戦苦闘し、いい出会い、悪い出会い、いろいろあったが、最大の収穫は文字の記録が当てにならないことを知ったことだ。本当のことは文書には書かれず、闇から闇に消えていっているのだ(わたし自身、すべてを書いたわけではない。できるだけ暗示しようとはしたが)。
 そんなこと当たり前じゃないかと思うかもしれないが、書かれたものがすべてというテキスト派の文藝批評をやってきた人間にとっては得がたい経験だった。
 12月にはいったら、いよいよ裁断処分らしい。しばらくは流通在庫があると思うが、今調べたらAmazonで3冊、紀伊國屋書店全店で3冊、ジュンク堂で1冊だった。7年前の本だから、在庫もこんなものか。
 興味のある人はお早めに。

「世界最速のインディアン」

 ニュージーランドの片田舎に住む老スピード狂、バート・マンロー(アンソニー・ホプキンス)が62歳にしてアメリカに渡り、世界記録を打ち立てるまでを描いた実話。のんびりはじまったが、途中ではらはらさせ、最後は感動させてくれた。故ファーンズワースの「ストレイト・ストーリー」に通じる風格がある。
 バートは草ぼうぼうの掘っ建て小屋に住み、40年前に買った当時最速のバイク、インディアン・スカウトのチューニングだけが生き甲斐の老人だ。庭の草刈りをしないので、周囲からは困った変人と見られている。
 彼はモーターレースの聖地、アメリカのボンヌヴィル・ソルトフラッツで走るのが夢だが、年金暮らしのためにいつ実現するか当てがない。しかし、狭心症の発作を起こしたのを期に、家と土地を抵当にいれて旅費を工面し、ボンヌヴィルに出発する。
 旅費がぎりぎりしかないので愛車を運ぶ貨物船にコックとして無料で乗せてもらいアメリカにわたるが、アメリカでは完全なおのぼりさん状態で、本当にボンヌヴィルに辿りつけるのだろうかとはらはらさせられる。
 バートの純朴な人柄に、会う人、会う人がみな親切にしてくれて、なんとか憧れのボンヌヴィルに到着する。夕暮の塩湖の底に立ち、過去のレーサーを回顧する場面は老境に達したアンソニー・ホプキンスだからこそ演じることのできた場面で感動した。
 しかし、本当にはらはらするのはこれからだ。バイクの知識がなかったのでわからなかったが、1920年代製のインディアン・スカウトで現代のレースに出るのは、ジェット機のレースに複葉機で参加するようなもので、ありえないことだったのだ。バートの参加資格をめぐって二転三転するが、最後にニュージーランドからやってきた老人に敬意を表して、テスト走行という名目で走ることが許可され、バートは予想外の好タイムを出す。
 ここからがアメリカ人のいいところで、実力があるとわかるとすぐに正式参加が認められ、バートは世界記録を更新する快挙をなしとげる。実話だというのがすごい。
 ロジャー・ドナルドソン監督は1971年にバートのTVドキュメンタリー"Offerings to the God of Speed"を撮って以来、この企画をあたためつづけていたそうで、34年かかった実現したことになる。これはこれでドラマである。ゴッド・オブ・スピード・エディションと銘打った特別版DVDの特典ディスクには1971年のドキュメンタリーが収録されているという。見てみたい気がする。

「ハンニバル・ライジング」

 ハンニバル・レクター博士の生い立ちにさかのぼった、いわば「羊たちの沈黙」エピソード1。日本の鎧兜の出てくる予告編で悪い予感がしていたが、本篇は目を覆いたくなるお粗末さだった。
 ハンニバルはリトアニアにレクター城をかまえる大貴族レクター家の御曹司だったが、両親を爆撃で失い、妹を飢えた逃亡兵のグループに食われ、リトアニアがソ連領になってからはかつてのレクター城を改造した寄宿舎でいじめぬかれる。ハンニバルは寄宿舎を脱出し、フランスのレクター家の分家に頼っていく。
 分家の当主はすでに他界していたが、日本から嫁いできたレディ・ムラサキという若い未亡人(なぜか鞏俐)にあたたかく迎えられ、パリで医学を勉強することになる。
 レディ・ムラサキは大名家の生まれで、日本から刀剣や能面、鎧兜などをもって嫁に来ているらしく、夥しい日本の美術品がおどろおどろしく映しだされる。しかも、念のいったことに彼女の両親は原爆で死んでいる。
 成人したハンニバルは妹を食べた逃亡兵たちが国際ギャングのようなことをしていることを知り、復讐を誓う。一人一人探しだしては日本刀で首を刎ねていくのだが、悪の化身だったはずのハンニバルが勧善懲悪のヒーローになってしまっている。
 傑作『羊たちの沈黙』に泥を塗るような作品だが、なんとエド・ハリスの原作に忠実らしいのである。エド・ハリスはここまで駄目になっていたのか。

2007年10月15日月曜日

レトロSF専門の激安DVD

 高田馬場駅前にムトウ楽器という老舗のレコード屋がある。靖国通りの両側に店があるが、新宿側のビルの二階の店はクラシック専門で格調高いのに対し、目白側はポップスと歌謡曲と落語のCDが雑然とならべられていて、ちょっとした昭和レトロの雰囲気だ。
 二階はDVD売場になっているが、レトロを通りこして場末感がわだかまっていて、いい感じなのである。。ここは穴場で、ブルース・ウィリス主演の『ブレックファスト・オブ・チャンピオンズ』など、アマゾンのデータベースにもないような珍品を買ったものだ。
 この数年はたいしたものが出ず足が遠のいていたが、久しぶりにのぞいたところ、レジ側の一番奥に見るからに怪しげなコーナーが出来ていた。けばけばしいジャケットを正面に向けてWHDジャパンという会社のDVDが陳列されていたのである。
 WHDはレトロSFとホラー専門に激安DVDを出している会社らしく、そそられるタイトルがごろごろしている。
 まず目についたのは「『ソラリス』の原作者が放つ禁断の空想科学映画!」とポップのついた『金星ロケット発進す』。ジャケット裏の説明を読むと『金星応答なし』の映画化ではないか。しかも、ヒロインは日本女性だ。こんな映画があったなんて知らなかった。
 一点780円なので、『金星ロケット』とウェルズ原作の『来るべき世界』、ジャケットの笑える『火星から来たデビルガール』、解説がおもしろそうだった『メシア・オブ・ザ・デッド』の4枚を買ってきた。
 WHDのホームページを調べると、500円のものもあった。『メトロポリス』や『カリガリ博士』など、他社から出ているものは500円、WHDでしか出ていないゲテモノは780円ということのようだ。
 500円ものには「新訳」という惹句がついている。PDものは概して字幕の翻訳がいい加減であり、SFやホラーとなるとジャンルの約束を知らない人間がデタラメな訳をつけることがすくなくないが、その点を改良して差別化を図ったらしい。
 うれしいことにアマゾンでもあつかっている。WHDで買うと送料がかかるが、アマゾンなら780円ものなら2点、500円ものなら3点買えば総量が無料になる。
 『メトロポリス』は「国内発売ではモロダー版でしか観る事のできなかった競技場のシーン等の幻のフィルムを発見。WHDジャパン独自の編集により加えた117分の特別バージョン」と銘打っているが、アマゾンの読者評を見ると、場違いな音楽がついているなどの理由で評判がよくない。
 一方、『吸血鬼ノスフェラトゥ』と『巨人ゴーレム』はなかなか評価が高い。
 新作が毎月出ていて、『シスター・オブ・デッド』などもおもしろそうだ。

「エターナル・サンシャイン」

 記憶消去技術が発明された社会を舞台にしたほろ苦いラブストーリー。封切を見のがしたが、やっと映画館のスクリーンで見ることができた。これは傑作である。ゴンドリー監督の最高傑作といっていいだろう。
 ヴァレンタイン・デーの朝、会社に行こうとしたジョエル(ジム・キャリー)は急に海が見たくなり、病気と偽ってモントーク行きの電車に乗る。モントークの海岸で彼はクレメンタイン(ケイト・ウィンスレット)という女性と知りあう。ジョエルは内気だが、クレメンタインは陽気で多血質で、積極的にジョエルにアプローチしてくる。二人はつきあうようになるが、実は……という展開。結末は途中で見当がつくが、それでも引きこまれた。
 見終わって考えこんでしまった。一見、よくあるボーイ・ミーツ・ガールのようだが、深い。『マトリックス』同様、あくまでエンターテイメントでありながら、哲学的ともいえる問いを投げかけてくる。
 記憶消去をうけおうラクーナ社がハイテク企業ではなく、場末の私立探偵の事務所のような一室で開業しているという設定がいい。他人様の頭の中をいじるのに、作業員がちゃらんぽらんなのがリアルだ。
 ジム・キャリーは内気で引っ込み思案の役が思いのほか似合っている。ケイト・ウィンスレットは地でやっているんじゃないかと思うくらいぴったりで、まさに多血質。彼女の環状の深さがないと、この映画は成りたたない。
 キルステン・ダンストは盲腸のような役だったが、すごくよかった。今まで嫌いな女優だったが、はじめていいと思った。

「恋愛睡眠のすすめ」

 同じゴンドリー監督の「エターナル・サンシャイン」はすばらしかったが、こちらは期待はずれ。
 パリ生まれ、メキシコ育ちの内気な青年ステファンがパリに到着したところからはじまる。ステファンの父はメキシコ人、母(ミュウ=ミュウ)はフランス人だったが、両親は離婚し、彼は父親につれられてメキシコにわたった。父親が亡くなったので、母親に呼ばれてパリにやってきたもの。
 母親はアパルトマンを一軒所有していたが、今は芸術家の恋人の郊外の家で同棲していて、ステファンは子供の頃住んでいた最上階の部屋に一人で住みはじめる。母親が用意してくれた仕事はデザイナーということだったが、実際はカレンダーに文字をいれるだけの単純作業で、フランス語のうまくないステファンは早くも空想に逃避するようになる。
 空想世界は段ボールや飛び出す絵本で作られていて、ほほえましいが、そこに事件が。隣室にステファニー(シャルロット・ゲンズブール)が引越してきてのだ。ステファンは成り行きで引越を手伝ったことから彼女に引かれるようになるが、心が通いあったはずなのに、彼女は恋人はいらないと拒絶する。
 ステファンはいよいよ空想に逃避していき、現実と空想の区別がつかなくなる。彼は会社を馘になり、メキシコに帰ることにするが、ステファニーを思いきれず、未練な行動をとっていよいよ嫌われてしまう。
 空想シーンは才気走っているが、現実シーンがぐちゃぐちゃすぎる。日本だったらこういう男にも別の着地点があるが、フランスの場合、ハードランディングしかないのだろう。

2007年10月11日木曜日

「プレステージ」

 宿命のライバル関係にある二人のマジシャン、ロバート・アンジャー(ヒュー・ジャックマン)とアルフレッド・ボーデン(クルスチャン・ベール)の相克を描いた奇作。
 冒頭、ボーデンが舞台の地下に駆けこむと、アンジャーが密閉された水槽の中でもがき絶命し、その場にいあわせたボーデンが殺人罪で逮捕される。外連味たっぷりの出だしだが、凶器となった水槽は無名時代のボーデンが脱出マジックでアンジャーの妻を事故死させたいわくつきのものだとわかる。事故以来、二人はことごとにいがみあい、憎しみが憎しみを呼んで、抜き差しならない関係になる。
 出だしがすごすぎて、対立がエスカレートする部分が中だるみ気味だが、後半、盛りかえしてくる。ニコラ・テスラが登場した時点で並の終わり方はしないだろうと思ったが、まさかそんな結末にはしないだろうと思った通りの結末になり唖然とした。
 こんな変態的なストーリーを考えたのはただ者ではないと思ったが、はたしてクリストファー・プリーストの『奇術師』という長編が原作だった。『奇術師』はさらに手がこんでいるらしい。結末がわかっていても読んでみたくなった。
 十分おもしろいけれども、演出が上手ければもっとおもしろくなったと思う。スカーレット・ヨハンソンが重要な役で出てくるが、対立がエスカレートする部分がごちゃごちゃしているためにキャラが埋没している。彼女を活かせていれば中だるみはなかったろう。

「ストリングス」

 デンマークの人形劇映画だが、庵野秀明と長塚圭史が脚色した「ジャパン・バージョン」だという。エイベックスが鳴り物入りで宣伝しているだけに声優陣は豪華で、主人公のハルを草薙剛、その妹ジーナを優香、敵対部族のリーダーでハルと恋に落ちるジータを中谷美紀、他に香取真吾、市村正親、戸田恵子、伊武雅刀、劇団ひとり、小林克也が参加している。
 「脚色」の関与がどのくらいなのかはわからないが、日本語吹替えの出来はベストとはいえない。もそもそ喋っていて、有名スターがそろっているのに、誰が誰だかわかりにくいのだ。専門の声優を使った方が人間関係がわかりやすくなっただろう。
 しかし、作品そのもののレベルが高いので、後半、盛りあがってくる。マリオネットが生きている世界という設定にして、マリオネットの宿命というべき糸をあえてさらしたセンスはすごい。「デビルマン」のように、自分の正義をひっくりかえしてみせたのも、デンマークという小国だからこそ可能になったストーリーだろう。結末は感動した。

2007年10月10日水曜日

「お熱いのがお好き」

 マリリン・モンロー、トニー・カーティス、ジャック・レモンが顔をそろえたコメディ映画の古典である。遅ればせながら見たが、これは傑作中の傑作だ。
 舞台は1929年2月の禁酒法時代のシカゴ。映画の公開は1959年だから、30年前の話という設定だ。1929年は10月に大恐慌がおきているから、2月はバブル景気が最後の暴走をはじめた時期にあたるだろう。
 冒頭、夜の街を霊柩車とパトカーが派手に撃ちあいをしながらカーチェイスをくりひろげる。それだけでもおもしろいのに、車はどちらも1920年代のクラシックカーだ。
 霊柩車が棺桶に隠して運んでいるのは密造酒で、葬儀社の地下にはゴージャスな地下酒場があり、夜な夜な乱痴気騒ぎ。そこへ警察の手入れ。
 しがないバンドマンのジョー(カーティス)とジェリー(レモン)は潜入した刑事に気づき、警察が突入する寸前に逃げだす。逮捕を免れたものの、二人は寒空のシカゴで路頭に迷う。やっと見つけた仕事に行くために女友達から車を借りるが、そのガレージでマフィア同士の抗争をを目撃してしまう。「聖バレンタインデーの虐殺」と呼ばれる事件だ。
 二人はマフィアの大親分(アル・カポネがモデルだが、名前は変えてある)に追われる身となり、シカゴから逃げるために女装して女だけのバンドにもぐりこんでフロリダに向かう。そのバンドのウクレレ兼ヴォーカルがマリリン・モンローである。
 ここまでは前置きで、本篇は暖かなフロリダのリゾートホテルが舞台となる。一人二役や勘違いといったコメディでおなじみの手法で笑わせるが、観客はこの後に大恐慌が来ることを知っているわけで、それが物語の隠し味になっている。
 マリリン・モンローは私生活では睡眠薬でボロボロになっていたが、映画の中ではひたすら明るく、無垢で、可愛らしい。

「荒馬と女」

 マリリン・モンローとクラーク・ゲーブルの最後の映画である。原作はアーサー・ミラーの短編 "The Misfits"で、「不適格者」とか「はみだし者」と訳されている。映画も原作の題名をそのまま使っており、邦題とはまったく印象が異なる。
 映画製作当時、ミラーとモンローの結婚生活は破綻しており、離婚は秒読みだったが、ミラーはモンローのためにロズリンという役を書き加えてやったという。
 舞台は6週間滞在すれば離婚が認められるネバダ州のリノで、ロズリン(モンロー)は離婚のために町にやって来ている。
 めでたく離婚が成立した日、離婚コーディネーターのイザベルに誘われて酒場にいき、野生馬狩りで生計を立てているゲイ(ゲイブル)と流れ者のパース(クリフト)、元爆撃機のパイロットで自動車修理工のギド(ウォラック)と意気投合する。
 ロズリンは西部の生活にあこがれをいだくが、パースの出場したロデオを見てショックを受ける。ふりおとされ、脳震盪でふらついているのに、まだ出場するというのだ。周囲の人間もそれを当然と考えている。ロズリンにはまったく理解できない。
 自由な生活の実情もだんだん見えてくる。ゲイは時代錯誤のカウボーイだし、パースは牧場を継ぐはずだったのに継母に追いだされたことを愚痴っている。ギドは爆撃で無辜の市民の殺戮に手を汚したことを悔やんでいる。
 翌朝、野生馬狩りがはじまると、ロズリンはさらにショックを受ける。ギドがオンボロ飛行機で野生馬の群れを追いたて、待ち構えていたゲイとパースが投縄でとらえるのだが、つかまえた野生馬はかつては乗馬としての需要があったが、今はドッグフードの原料にしかならないというのだ。ロズリンは脚をロープで縛られ、地面でもがく馬を見てパニックを起こす。パースは見るに見かねて、ロズリンのために野生馬を解放してやる。
 面目丸つぶれのゲイは最後に意地を示す。徒手空拳、野生馬のリーダーと格闘してとりおさえる。これで救われた。
 それまでは陰々滅々な展開で、途中で席を立ちたくなった。DVDだったら見るのをやめていただろう。二本立ての一本目だったので、我慢して最後まで見たが、最後まで見通すと感動していた。ゲイは最後にプライドをとりもどした。ゲイを演じたクラーク・ゲーブルはクランクアップの四日後に急死したということだが、それだけの鬼気迫る名演だった。
 ギリシャ悲劇などもそうだが、真のカタルシスにいたるには不快に耐えなければならない。昨今のマーケティング主導の映画作りでは無理だが。

2007年10月6日土曜日

「ふろくのミリョク☆展」

 弥生美術館で「ふろくのミリョク☆展」を見た。ここは雑誌の挿絵専門の美術館だから、雑誌の付録も守備範囲ということだろう。
 若い人は知らないだろうが、少年サンデー、マガジンが創刊される前はマンガ雑誌は月刊が基本で、本体より一回り小さい別冊マンガ数冊と紙製の組立付録を間にはさみ、倍くらいの厚さに膨らんでいた。紙の事情がよくなっても、マンガ雑誌だけはガサガサの仙花紙にこだわっていたから、見かけの厚さが売行を左右したのかもしれない。組立付録は紙製といってもあきれるくらいよく出来ていて、組み立てるのがまた楽しみだった。
 展示は一階がルーツと少年雑誌、二階が少女雑誌という配分である。
 組立付録のルーツは江戸紙おもちゃと欧米のペーパークラフトだ。双六やカルタ、錦絵、皇室ブロマイド(!)のような紙の付録をつけているうちに、昭和にはいった頃からペーパークラフトを日本化した組立付録をつけるようになったらしい。
 初期の組立付録は時代が時代だけに、軍艦や戦車、飛行機といった軍事ものが多い。講談社「少年倶楽部」専属で中村星果という付録作りの名人がいて、彼の作品で一つのコーナーができていたが、ひと抱えもある戦艦三笠など、唖然とするくらいよくできている。細部まで細かく作りこんである上に、組み立てる前の紙の状態を見ると、ほとんど無駄がない。戦艦三笠は復刻版が講談社から出ていたようだが、今は絶版である。これはぜひほしい。また復刻しないだろうか。
 戦前は中村星果を擁した「少年倶楽部」の独壇場だったが、戦後は光文社の「少年」が組立付録の王者となる。

 「少年」で一つのコーナーができていたが、「少年」はとっていたので懐かしかった。見覚えのある付録もあった。今にして思えば大変なことだが、「少年」には「鉄腕アトム」、「鉄人28号」、「サスケ」など、昭和のマンガの代表作が連載されていたのだった。
 うっかりしていたが、『月刊漫画誌 「少年」 昭和37年 4月号 完全復刻BOX』という復刻版が出ていた。プレミアがついているようだが、また復刻してくれないものか。
 戦後の組立付録は軍事から科学へシフトしたが、科学付録といえば学研の「科学」が他を圧していた。学習雑誌は講談社や小学館からも出ていたが、「科学」の付録はプラスチックや木材、金属を使っていて、次元が違っていた。それが現在の『大人の科学』シリーズにつながっているわけであるが。
 学研の「科学」だけ紙以外の素材を使った付録をつけることができたのは、学研がトラック輸送を使っていたためだそうである。学研以外の学習雑誌は国鉄で運送していたので、雑誌には紙しか認めないという国鉄の規制にひっかかり、紙の付録しかつけることができなかったというわけだ。
 多分、これには取次の問題もからんでいるだろう。学研の学習誌は書店ではなく、学校で売られていた。教師が予約した子供から毎月お金を集め、教室でわたすということをしていたのだ。よくあんなことが許されていたものだと思う。
 さて、二階は少女雑誌の付録だが、こちらはイマイチだった。松島トモ子は懐かしかったが、どれも妙に実用的で、付録特有のバカバカしさが薄いのである。
 この展覧会にあわせて、河出書房の「らんぷの本」シリーズから『少女雑誌ふろくコレクション』が出版されるというが、少女雑誌の付録では食指が動かない。平凡社の「別冊太陽」から出ている『おまけとふろく大図鑑―子どもの昭和史』の方がおもしろそうだ。
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2007年10月4日木曜日

「そして、デブノーの森へ」

 イタリアの文化財ものの図書館で開かれた討論会の場面からはじまる。討論会のテーマはセルジュ・ノヴァクという覆面のベストセラー作家で、壇上には代理人の編集者があがっている。最後列で見ているダニエル(ダニエル・オートゥイユ)がノヴァク本人で、彼はさっさと会場を離れ、ナポリに向かって車を走らせる。ナポリの沖のカプリ島で義理の息子、ファブリツィオ(ジョルジョ・ルパーノ)の結婚式があるからだ。
 カプリ島にわたる船上で彼はミラ(アナ・ムグラリス)というイディッシュ語を話す美女と出会い、彼女に誘われるまま一夜をともにする。翌朝、彼女と別れて結婚式場につくが、花嫁としてあらわれたのはミラその人だった。
 ミラは新婚の夫をさしおいて、ダニエルに接近してくる。ミラはモデルで、豪勢な匿れ家を持っていたが、同じポーランド出身というエヴァ(マグダレーナ・ミエルカルツ)という女が影のようにつきしたがっていた。
 最初はオヤジの危険なアバンチュールで引きつけるが、半ばから復讐の物語であることが明らかになってくる。エヴァはダニエルの自殺した親友の娘で、彼女はダニエルの処女作は自分の父の作品の盗作だと、巨額の金を要求してくる。ミラはエヴァの復讐のためにダニエル一家に近づいたのか。
 アナ・ムグラリスの挑戦的なまなざしがどきどきするほど魅力的だが、そのまなざしには意味があったことが最後のどんでん返しであきらかになる。ダニエルが覆面作家として活動してきたことにも、二重の意味があったことがわかる。
 盗作というと「私家版」という傑作があるが、こちらはどっちがどっちを盗んだともいえない親友どうしの魂の結びつきにふれており、実に深い。
 ダニエルの妻という脇役だが、久々のグレタ・スカッキがいい味を出している。若い頃の彼女はただの美人女優で薄味だったが、年齢を重ねて、いい意味で貫禄が生まれている。
 しかし、この映画の成功はアナ・ムグラリスの存在によるところが大きい。なんという美貌だろう。『NOVO』に主演しているということだが、見のがしてしまった。ぜひ映画館で見たい。

「寂しい時は抱きしめて」

 いきなり女性の半開きの唇が大写しになる。カメラが引いていくと、寝椅子の上でポルノ・ビデオを見ながらマスターベーションしている彼女の全身像が映る。彼女はそれだけでは満足できず、悶々としながら踊りにいき、男をひろって野外で交わる。
 その後もストーリーらしいストーリーのないまま、濡れ場ばかり。最初はポルノ風芸術映画かと思ったが、実は芸術映画風ポルノだった。途中で退屈した。

2007年10月2日火曜日

ニューヨーク・タイムスが過去記事無料化

 ニューヨーク・タイムスは過去記事の無償公開に踏みきった(media pub)。無償公開されているのは1987年以降の記事だが、それ以前の記事の多くも無料で読めるようである。
 安部公房の訃報を検索したところ、ちゃんと出てきた。

 映画評も無償公開されており、映画評の抜粋と読者の投稿した感想を読むことができる。映画評の全文を読むにはあらかじめ自分のメールアドレスを登録しておく必要があるが、たいした手間ではない。下は『砂の女』の映画評である。

 media pubによると、アーカイブ開放にあわせ、リンク切れがおこらないように記事URLの恒久化するとともに、サーチエンジンの上位に来るように記事のマークアップを変更を進めているということだから、狙いとするところは明確だ。
 過去記事の有償公開にこだわっていてはネット社会では埋没するだけだ。ニューヨーク・タイムスのブランド力を守り、アーカイブという資産を生かすには無償公開に踏みきるしかなかったのである。
 日本はどうか。MSNは毎日新聞との提携をやめて、10月1日に産経新聞と組んで新ニュースサイト「MSN産経ニュース」を開始したが、過去記事の公開は半年間限定である。毎日MSNが3ヶ月だったことを考えれば多少進歩したといえるが、五十歩百歩でしかない。
 一方、毎日新聞は10月1日から「毎日jp」を開設したが、過去記事の公開は一ヶ月間に短縮してしまった。
 ITmediaによると「サイト全体について、アルファブロガーと呼ばれる有名ブロガーやネットジャーナリストに助言をもらった」ということだが、一ヶ月でリンク切れになるようなことをしておいて、本当に意見を聞いたのだろうか。
 アルファブロガーによるお勧め記事のコーナーなどを作るらしいが、有名人に頼ってという発想がすでに古い。こんなことだから、マイクロソフトに見限られるのだ。バカはどこまで行ってもバカである。

「ラスト・キング・オブ・スコットランド」

 最悪の独裁者といわれたウガンダのアミン大統領を、はからずも側近になってしまった若いスコットランド人医師の視点から描く。原作はジャイルズ・フォーデンの『スコットランドの黒い王様』。
 エジンバラ大医学部を卒業したニコラス・ギャリガンは冒険心からアフリカの診療所に赴任するが、クーデタを起こして大統領に就任したばかりのアミンが村にやってきて知りあったことから、とんとん拍子に主治医にとりたてられる。アミンは英国嫌いだったが、ギャリガンが英国に抵抗したスコットランドの出身だったことが気にいられた理由らしい。
 フォレスト・ウィテカー演じるアミンは陽気で騒々しく、周囲を熱狂に巻きこみ、現実の大統領というよりカーニバルの阿呆王という印象である。ウィテカーの怪演は評判通りだが、アフリカではこういう人物でないと大統領になれないのだろうか。
 ギャリガンはジャングル暮しをやめて首都の豪邸に移り、得意満面の日々を送るが、しだいにアミン政権の裏面を知るようになる。
 始末の悪いことに、彼はアミンの夫人の一人に同情するうちに恋仲になってしまう。
 不倫がばれたギャリガンは脱出を試みるが、時すでに遅く、絶体絶命のピンチに。最後の最後にエンテベ事件を持ってきたのは上手い。
 ギャリガンは架空の人物だが、『金正日の料理人』を読んでいたので、こんな若者がいても不思議はないと思った。北朝鮮が崩壊したら、金正日を主人公にして同じような作品が作れるだろう。

「クイーン」

 ダイアナ妃の死の後の英国王室の内情を描いた映画だが、3ヶ月前のブレア首相就任時点からはじまる。就任するまでの手続を通して女王の役割を紹介しようというわけだ。
 覗き見趣味をほどほどに満足させ、人間模様を見ることもでき、英国の政治制度の勉強にもなるというよくできた映画だが、感動するところまではいかなかった。
 エリザベス女王を演じるヘレン・ミレンはすばらしいが、他の役者がしょぼすぎるのだ。ブレア首相がかっこよく描かれてはいるが、所詮、脇役であって、女王に拮抗する人物にはなっていない。王室の面々も小粒だ。ヘレン・ミレンがどんなによくても、対立する人物がいないとドラマにはならない。映画のブレアは3ヶ月で反王室から女王のファンに転向したが、ここを掘りさげればドラマが生まれたかもしれない。

2007年9月28日金曜日

「怪獣と美術」展

 三鷹市美術ギャラリーで「怪獣と美術」展を見た。
 「ウルトラQ」以来、怪獣をデザインしてきた成田亨氏(1929-2002)の業績を美術として再評価しようという展覧会で、成田氏とともに怪獣製作をおこなってきた高山良策氏、現役で活躍中の池谷仙克氏、原口智生氏の作品もくわえ、160点もの作品が展示されている。作品はすべてが怪獣関係ではなく、美術家として製作した彫刻や絵画もふくまれている。
 意欲的な企画だと思うが、怪獣関連作品はデッサンと石膏のモデル、ミニチュアが主で、撮影に使われた完成形はなく拍子抜けであった。怪獣博士のような人にとってはお宝ぞろいなのだろうが、ちょっと興味がある程度の人間には地味すぎる内容である。
 それでも、知っているキャラクターの展示は興味深かった。
 成田氏はウルトラマンのデザインもおこなっていて、初期のプランが二点あったが、最終的な形態とは似ても似つかぬ怪獣顔で唖然とした。あそこまで違うとなると、ウルトラマンのコンセプトが固まるまでにかなりの紆余曲折があったことが推察される。
 バルタン星人がもともとは蟬型宇宙人として構想されていたことも意外だった。当然、手はハサミではない。成田氏はザリガニ型宇宙人になってからも、手をハサミにするのは反対だったそうで、ハサミではない案を残している。
 ウルトラセブンには肩に鎧のような飾りがついているが、中にはいる役者の背が高く、オリジナルのデザインでは間が抜けて見えるので、アクセントに鎧をつけたのだそうである。
 特撮のデザインは一人がやったものではなく、集団創作と考えた方がいいようだ。成田氏は作家性を抑圧されることで、すばらしい仕事を残したのかもしれない。
 怪獣とは関係のない彫刻が展示されていたが、よくわからなかった。グロテスクさはウルトラマンの最初の案に通じるかもしれない。
 晩年に描いた二点のカネゴンの絵は印象に残った。土管の上に腰かけ、夕日を眺めているカネゴンの姿には昭和ノスタルジーの味があった。
 高山、池谷、原口三氏の作品は、知らない怪獣ばかりで、わたしにとっては猫に小判だった。

2007年9月23日日曜日

「武部本一郎」展

 弥生美術館で「紙芝居からSFアートまで 武部本一郎展」を見た。
 展示は一階と二階にわかれ、二階はエドガー・ライス・バローズの「火星シリーズ」以降、一階はそれ以前である。
 一階は紙芝居からはじまっている。印刷ではなく、絵具で描いた上からニスをかけて補強している。実際に口演に使われたそうだが、保存状態はいい。
 つづいて貸本マンガと絵物語がくるが、この頃、武部夫人がGHQの通訳をやっていた関係で、アメリカ軍の軍人からよく肖像画を依頼されたという。
 その経験が役に立ったのか、翻訳物の児童書の挿画が増えてきて、エキゾチックな武部調がしだいにはっきりしてくる。
 児童書の挿絵は多い上に多ジャンルにおよんでいるが、意外だったのはSFの挿画を早くから手がけていたことだ。なんと、「ターザン」まで描いていた。通説では『火星のプリンセス』ではじめてSFと出会ったことになっていたが、そうではなかったのである。
 ホームズやベリヤーエフには見覚えがあった。どうやら「火星シリーズ」以前から武部の挿画を見ていたらしい。
 二階はいよいよSFアート時代である。最初に「火星シリーズ」、次に「金星シリーズ」、そして「ペルシダー・シリーズ」、「月シリーズ」、「ターザン・シリーズ」とバローズ作品がならび、他の作家の挿画がつづく。
 文庫の挿画なので原画は大きくはないだろうと思っていたが、B5くらいあり、実に細密に描かれている。
 武部は「火星シリーズ」の成功で一躍SFアートの第一人者となるが、1970年代にはいるとマンネリになってくる。一番脂が乗っていたのは「火星シリーズ」前半と「金星シリーズ」だと思う。特に「金星シリーズ」はいい。武部の最高傑作はなにかときかれたら、『金星の火の女神』のドゥーアーレーを描いた口絵をあげるだろう(「エドガー・ライス・バローズのSF冒険世界」で見ることができる)。
 「火星シリーズ」は全巻読んだが、「金星シリーズ」は武部の挿画が目的で買ったものの、中味を読んだ記憶はない。多分、読んでいないだろう。読んでみたくなったが、すでに絶版になっていた。
 図録の代わりの「挿絵画家武部本一郎」という小冊子を買ったところ、『武部本一郎少年SF挿絵原画集』を編纂した大橋博之氏による小伝があった。これを読むと、通説は間違いだらけだったことがわかる。これまでの武部像は「火星シリーズ」の訳者で東京創元新社の取締役だった厚木淳氏の紹介文で作られた部分が大きかったが、厚木氏と武部氏の関係には微妙なものがあったらしい。
 武部の画集としては大橋氏編纂のものと加藤直之氏による『武部本一郎SF挿絵原画蒐集』が入手可能だが、岩崎書店から出ていた三巻本はとうに絶版で、古書店で高値をつけているようだ。東京創元新社から限定版で出た画集となると、20万円以上するらしい。ファンは多いのである。
 二転三転していた「火星シリーズ」の映画化がいよいよ本決まりになったようだ。eiga.comによると、製作はピクサーがてがけ、「ロジャー・ラビット」のようなアニメーションと実写を合成した作品になるらしい。デジャー・ソリスは女優が演じると思うが、誰がやるのだろうか。赤色人はネイティブ・アメリカンがモデルだから、武部が描いたような東洋系の顔でもおかしくないはずだが、そうはなるまい。誰がやるにしろ、日本のバローズ・ファンは武部のデジャー・ソリスが動きだすのでない限り納得しないが。

「脳が地震を予知する!?」

 テレビ朝日の「素敵な宇宙船地球号」で「脳が地震を予知する!?」が放映された。
 地震の前にナマズが騒ぐとか、鼠がいなくなるとかいった前兆現象が起こることが伝承として伝えられているが、これまでは迷信で片づけられ、一部の好事家が興味をもつにとどまっていた。しかし、計測技術の進歩によって前兆現象を科学的に検証しようという試みがはじまり、徐々に成果が出てきているという内容である。
 前半では生物前兆現象を利用した中国の地震予知体制とスマトラ沖地震の際の生物の異常行動を紹介していた。
 スマトラ沖地震の際には、津波の到達する数時間前にスリランカの低地にいた象が鎖を引きちぎって高地に避難し、一頭も難に遭わなかった事例がニュースになった。象は人間の耳には聞こえない超低周波でコミュニケーションをとっており、津波の発する超低周波をいち早く感知したと説明されているが、実は地震の4日前から、ヤーラ国立公園の象の群れに異常行動が見られたというのだ。もし地震の前兆として超低周波が出ていたとしても、スリランカは震源から1600kmも離れており、それだけでは説明がつかない。
 番組では大地震の直前に震源付近で起こる小規模な岩石破壊で発生する電磁波を生物が感知しているのではないかという山中千博氏の仮説をもとに、実験室で岩石を破壊した時に発生する電磁波と同じ波形の電磁波を象にあてたところ、象はあわてだし超低周波の警戒音を発することを確認した。生物の前兆現象を研究している中国の研究機関にも同じ装置を持ちこみ、さまざまな生物に電磁波をあてたところ、やはり顕著な反応があった。
 後半では人間で同じ実験を試みていた。大地震の数日前に耳鳴りがするという福岡博さんと江口香織さん、対象群として東海大学医学部の学生に実験室で岩石を破壊した際に発生する電磁波と同じ波形の電磁波をあて、光トポグラフィーで脳の反応を計測したところ、福岡さんと江口さんの脳の聴覚野に反応が起き、耳への圧迫感も再現された。
 次に実際の地震の前に観測された電磁波の波形をあてたところ、さらにはっきりした反応があらわれ、しかも学生の脳にも反応が見られた。学生自身は耳鳴りも圧迫感も感じていなかったが、脳は電磁波に反応していたのである。
 鈍いか鋭いかという程度の差こそあれ、人間の脳には地震の前兆の電磁波を感知する能力がそなわっているらしい。地震は生存の危機に直結するわけで、長い進化の中でそうした能力が発達したとしても不思議はない。
 野口整体では地震の数日前から心臓病が悪化すると言っていたが、あながち根拠のない話でもなかったのかもしれない。

2007年9月22日土曜日

「勅使河原宏展」

 埼玉近代美術館で「勅使河原宏展-限りなき越境の軌跡」を見た。
 勅使河原宏氏は安部公房作品を映画化しただけでなく、敗戦直後に「世紀の会」を結成し、ともに前衛芸術運動を推進してきた仲間だった。家元継承後は陶芸や竹のインスタレーションに力をいれ、映画も「利休」、「豪姫」と伝統回帰した印象があったが、今回の展覧会を見て、最後まで前衛をつらぬいていたこと知った。
 入口をはいると、Ω型に曲げた竹をつらねたトンネルを歩いて展示場に導かれるのであるが、カーブしているせいか屋内とは思えないくらい長く感じた。聞けば30mもあるという。
 第一室は活花だが、なまものだけに写真展示が主だった。活花はわからないが、未来建築のような印象である。こういうものが部屋に飾ってあったら、落ちつかないだろう。
 第二室は竹のインスタレーション。写真と記録映画が主だが、物量を投入した野外展示のすごさに度肝を抜かれた。膨大な数の青竹が整然とならべられ曲げられているが、内側の反発力が頑強なしなりを生み、一本一本が激しく自己主張している。竹は単なる素材以上のものになっている。実物を見たかった。
 映画は「勅使河原宏の世界」としてDVD化されているが、竹のインスタレーションの映像は今のところ発売されていないようだ。ぜひDVD化してほしいと思う。
 第三室は「利休」に捧げた書と陶芸。竹をそのまま炭に焼いたような黒い肌の焼物が多く、いかにも前衛芸術という印象だ。豪快というべきなのだろうが、正直いって、この部屋の作品はわからない。
 第四室は映画監督と草月プロデューサーとしての勅使河原。室の入口で「砂の女」、「他人の顔」、「おとし穴」の予告編をエンドレスで上映しているが、つい見いってしまった。
 脚本や絵コンテ、セットの設計図などの資料類が中心だが、「他人の顔」関係が多い。細く尖らした鉛筆で書いたとおぼしい細心精密な筆致で、第一室から第三室までの豪放磊落な印象とは180度違う。
 「他人の顔」の診察室に出てきたアクリル板の間に人体の部分をはさんだオブジェの実物が展示されていた。画面では安っぽく見えたが、実物は一個の芸術作品である。手や足は実物大で、人体を形どりしてレジンを流しこんだのかと思ったが、近くで見ると筋肉や皮膚の凹凸が誇張されているのがわかる。
 「砂の女」関係資料は青焼きの図面二枚と、カンヌの賞状しかなかった。残っていないということだろうか。カンヌの賞状は二つ折りで、左側は水彩とおぼしい絵で、それ自体、一つの作品といっていいくらいのものだった。
 第五室は「世紀の会」時代の作品で、安部公房ファンには一番興味深い部屋だ。
 勅使河原は芸大の日本画科出身だが、なぜか油彩ばかり、それもタンギーを思わせる絵など最初から前衛していた。安部公房の医学部卒業のようなものか。
 「世紀の会」は「世紀群」という機関誌を出していたが、その実物が展示されている。プロの手になると思われる謄写印刷で保存状態がいい。安部公房は第四号に「魔法のチョーク」を寄稿しているが、その挿画が勅使河原なのである。貼込で、手彩色らしく実に鮮かだ。

2007年9月20日木曜日

「14歳」

 深刻かつ疲れる映画である。
 最初に女子中学生が教師を刺す場面があるが、その中学生は成人して中学教師になっている。深津稜(並木愛枝)26歳である。
 深津の同級生でピアノをやっていた杉野浩一(監督もつとめている廣末哲万)は音楽をあきらめて技術者になっているが、会社の社長に頼まれて息子の雨宮大樹(染谷将大)にピアノを教えることになる。大樹は深津の教え子でもある。
 深津の担任するクラスを中心に話が進むが、鬱屈をかかえた爆発寸前の生徒ばかり。深津自身、カウンセラーに通いながら教師をつづけている(オイオイ)。
 いろいろ深刻に悩んでいるが、まったく理解できない。今の14歳が本当にこうなのかどうかは知らないが、勝手に狂ってくれという感じだ。

「神童」

 さそうあきらのマンガの映画化。八百屋の息子で音大浪人生のワオ(松山ケンイチ)と、天才ピアノ少女うた(成海璃子)が出会い、互いに刺激しあう話らしい。
 原作は評判がいいらしいが、映画はお粗末で支離滅裂。
 しかし、最後まで見てしまったのは成海璃子がすばらしかったからだ。映画はゴミなのに、彼女の存在感にねじ伏せられてしまった。成海璃子が神童であることを証明したことだけに意義のある映画といえる。

2007年9月19日水曜日

「アメリカ人はどこから来たのか」

 NHKの「地球ドラマチック」で英国グラナダTV製作の「アメリカ人はどこから来たのか」が放映された。
 アメリカ先住民は氷河期にベーリンジア(海面低下で陸続きになったベーリング海峡のこと)を通ってアラスカに移住した新モンゴロイドの子孫と考えられている。氷河期のアラスカはツンドラ地帯で狩猟生活ができたが、カナダにあたる地域には広大な氷河が広がり、1万2千年前にロッキー山脈東側に無氷回廊が出現するまでは人類の進出を阻んでいた。定説にしたがえば、1万2千年以前にはアラスカ以外の南北アメリカ大陸には人類は住んでいなかったことになる。
 しかし、近年、南北アメリカ大陸に数万年前の人類の痕跡が次々と発見されている。彼らは寒冷地適応した新モンゴロイドではなく、縄文人に近い旧モンゴロイドだったらしい。
 もし縄文人だとしたら、千島列島からアリューシャン列島をたどり、カナダ西岸を南下する島づたいのルートでわたったと考えられるが、この番組ではジャイアントケルプの海中林ルートを紹介していた。
 ジャイアントケルプは昆布の一種で、百メートル以上に成長して鬱蒼たる海中林を作り、南の珊瑚礁のように多くの生物に住処を提供している。北米大陸の太平洋岸沿いのジャイアントケルプの海中林が有名だが、実は海中林はアリューシャン列島をへて千島列島沿いに北海道までつづいているという。
 ジャイアントケルプの先端は海面に達し、浮遊性の海藻がからまって、波を静めるので、ラッコが睡眠場所にしているという。海中林沿いに進めば、食物が豊富なので、貧弱な舟でも十分アメリカ大陸に到達できるそうである。
 番組ではもう一つ、大西洋を横断するルートの存在も指摘していた。
 北米大陸にヨーロッパと同じ様式の石器が出土することは『モンゴロイドの地球 第5巻』でも指摘されていたが、新石器時代に大西洋横断は考えにくいので、真剣に検討されることはなかった。
 氷河時代、北大西洋の北半分は氷床で覆われていたが、氷床の縁の部分では下降水流が発生し、海底の養分が攪拌されて豊かな漁場となるので、オットセイやトドのような海獣が集まってくる。氷床の縁沿いに海獣猟をしているうちに、北米大陸に達することは十分考えられるというのである。
 こう見てくると、アメリカ大陸に最終氷期以前から人類が住んでいたとしても不思議ではなくなる。
 しかし、ここで新たな問題が浮上する。現在のアメリカ先住民は新モンゴロイドであり、縄文人の痕跡もコーカソイドの痕跡も認められないことだ。無氷回廊が開きアラスカのマンモス・ハンターが南下した後に、アメリカ大陸の住民がいれかわった可能性があるのである。
 番組では慎重な留保をしつつも、マンモス・ハンターによる旧先住民のジェノサイドの可能性をほのめかしていた。PC的にはきわどいが、ありえない話ではない。

2007年9月18日火曜日

「祇園囃子」

 昼の祇園を普段着の栄子(若尾文子)がスタスタ歩いていく場面からはじまる。伝統と格式がものをいう花街に負けん気の強そうな栄子が一人はいっていく姿にこの映画のテーマが集約されている。
 栄子は一軒の置屋にはいっていき、美代春(木暮実千代)に面会し、舞妓にしてくれと頼みこむ。栄子の母も芸者で美代春の同輩だったが、西陣の織屋の沢本(進藤英太郎)に落籍されて栄子を生んだが、沢本の家業が左前になってわかれ、最近亡くなっていた。
 美代春は実の父親の沢本が保証人になるならというが、落ちぶれ、中風で体の自由がきかなくなった沢本は頑として保証人の判をつかない。頼まれたらいやとはいえない性格の美代春は保証人なしに栄子を引きうける。
 一年の修行の後に栄子は美代吉としてデビューすることになるが、沢本は当てにならず、美代春が支度をしてやらなければならない。美代春は懇意の料亭の女将、お君(浪花千栄子)に金を借り、支度を調える。
 栄子は持ち前の天真爛漫さでたちまち人気者になるが、楠田(河津清三郎)という大企業の御曹司に気にいられ、しかも楠田が受注を狙うプロジェクトの責任者である神崎という役人が美代春に執心したことから二人の行く末に暗雲が立ちこめる。栄子は唇を求めてきた楠田の鼻に噛みつき、美代春はお君がお膳立てした神崎の座敷から逃げてしまったのだ。
 楠田は鼻に噛みつかれた上に、受注が宙に浮いてしまい、踏んだり蹴ったり。美代春が神崎を拒否しつづけるなら、会社の存続があやうくなる。とりなしを頼まれたお君は回状をまわし、美代春と栄子を座敷に出られなくしてしまう。
 芸者といっても所詮売物買物。料亭の意向に逆らうなど考えられないことだったが、アプレゲールの栄子に触発されて、美代春も自分というものに目覚める。二人は花街のしきたりに屈せずに自分をつらぬけるのか。
 この映画の見どころは木暮、若尾、浪花という三女優の競演にある。若尾の生意気な可愛らしさ、浪花の親切ごかしの老獪さもいいが、なんといっても木暮がすごい。匂わんばかりの色香と気っ風のよさ、そして芸者としての意地が美代春を大きな存在にしている。

「赤線地帯」

 吉原の「夢の里」という店を舞台にした娼婦の群像劇で、売春防止法が国会で争点となっていた1956年3月に公開された。映画の中では売春防止法は継続審議になったが、実際は公開2ヶ月後の5月に可決されている。
 「夢の里」は特飲街組合の役員をやっている田谷倉造(進藤英太郎)とその妻の辰子(沢村貞子)が経営する女郎屋で、倉造は娼婦のことを本当に考えているのは自分たちだ、政府に代わって福祉事業をやっているんだが口癖である。
 「夢の里」のかかえる女は5人いるが、みなワケありだ。
 店一番の売れっ子のやすみ(若尾文子)は疑獄事件にまきこまれた父親の裁判費用のために娼婦になった女で、男社会に対して復讐心をもやし、なんとかしてのし上がろうとしている。あの手この手で男から金を引きだしては、仲間の娼婦に金を貸して金利を稼いでいる。貸し布団屋のニコニコ堂の主人(十朱久雄)を手玉にとって夜逃げをさせ、ちゃっかり居抜きで店を買って後釜に納まる。しかし、売春防止法が可決されたら、商売あがったりだろう。赤線を離れられないところに悲しさを感じる。
 ハナエ(木暮実千代)は結核の亭主をかかえる通いの娼婦で、子供をおぶった亭主がむかえにくるのがわびしい。眼鏡をかけてすっかり所帯やつれしていて、その上、亭主を亡くすという悲しい役である。木暮が眼鏡をかけコミカルに演じているのが救いになっている。木暮はコメディエンヌとしても一流である。
 若尾と木暮の変貌ぶりからすると「祇園囃子」から10年くらいたっていそうだが、実際は3年しかたっていない。演技力恐るべし。
 ミッキー(京マチ子)は栄公(菅原健二)の連れてきたニューフェース。ゴージャスな肉体を強調した洋装で人気者になるが、浪費家で前借りばかりしている。彼女神戸の貿易商の娘で、母親をないがしろにした父親に反発して娼婦になったといういわくがある。世間体を気にした父親がむかえにくるが、父親の女遊びをなじって追いかえす。
 より江(町田博子)は東北訛の垢抜けない女だが、結婚を約束した男がおり、すこしづつ所帯道具を買いためているが、前借がなかなか減らず、いつ結婚できるかわからない。ミッキーが前借は無効だから、逃げてしまえば警察沙汰にできないと教えたのをきっかけに、他の娼婦が協力して首尾よく逃げることに成功する。しかし、結婚生活は上手くゆかず、すぐにもどってきてしまう。
 ゆめ子(三益愛子)は満洲から息子を連れて引きあげてきた未亡人。戦死した夫の両親と息子を養うために東京に出てきて、娼婦に身を落としている。息子といっしょに暮らすことを夢見ているが、集団就職で上京した息子が店を訪ねてくると居留守を使い会おうとしない。しかし、息子は厚化粧で客に媚びる母親の姿を見てしまい、ショックを受ける。ゆめ子は息子の勤める工場に会いにいくが、息子に拒否され、最後は発狂する。
 この映画、大昔にも見ているが、今回の方がおもしろく見ることができた。日本映画全盛期をささえた大女優の競演で、こんな映画は二度と撮れない。

2007年9月15日土曜日

デュアル本

 中経出版が書籍購入者に電子テキストを提供する「ネット書籍サービス」をはじめたそうである(CNet)。
 うっかりしていたが、三省堂が「dual大辞林」として同様のサービスをすでに開始していた。辞書こそ電子データの利便性がものをいうわけで、紙の辞書離れを防ぐ決め手になるかもしれない。
 今はすべてコンピュータ組版になっているので、電子テキストはすでにあるわけである。ほとんど追加コストがかからないのだから、出版社側にもメリットがあるはずだ。問題は著者側の気分的な問題ということになる。
 認証がややめんどうのようだが、ICタグを本に埋めこんで、買ってきた本をパソコンにかざすだけで認証が終わるようにしたらどうだろう。CDをリッピングする際、自動的にネットから曲名や演奏者のデータをひろってきてくれるが、あのようなことが本でもできたらいいと思うのだ。
 またこういう利点があれば、なかなか進まない書籍のICタグ化を後押しすることにもなるだろう。

「ママの遺したラブソング」

 スカーレット・ヨハンソンとトラボルタの共演ということで期待したが、思わせぶりなだけ。教養コンプレックスみたいなものが鼻につく。ラスト、二人の関係がわかるが、白けるだけ。
 映画としてはつまらないが、スカーレット・ヨハンソンのビデオクリップとしてなら見る価値がある。時分の花というべきか、この映画のヨハンソンは立っても、座っても、歩いても、溜息が出るほど美しい。これだけ美しいと、コスチューム・プレイよりラフな格好の方が見栄えがする。

2007年9月13日木曜日

「雪夫人絵図」

 舟橋聖一の同題の小説の映画化である。
 元華族の信濃家の熱海の別荘に信州の女学校を卒業したばかりの濱子(久我美子)が奉公にあがるところからはじまる。荷を解こうとしているところに当主の訃報がはいり、濱子は雪(木暮実千代)の着替をとどけるために東京の本宅にやられる。本宅では多くの愛人が財産争いをはじめており、そこに雪の夫で婿養子の直之(柳永二郎)があらわれ、怒鳴りちらしはじめる。雪はおろおろするだけだ。
 信濃家は当主が貴族院の議長をつとめたほどの家だったが、財産税や戦後のどさくさで手を出した事業に失敗で没落し、跡を継いだ雪には熱海の別荘しか残らなかった。直之は愛人の綾子(浜田百合子)のいる京都にいったきりで、たまに熱海にもどると乱暴に雪の体をもとめ、雪は拒否できない。直之は純情な濱子にわざわざ雪との痴態を見せつけて面白がっている。
 雪には信濃家の元書生で、今は上流夫人に琴を教えている菊中(上原謙)という相談相手がいた。雪は菊中にすがろうとするが、彼はは自立しろと突きはなし、別荘を旅館にするように勧める。
 雪が宇津保館をはじめると、直之は京都から綾子と腹心の立岡(山村聰)を連れて乗りこんできて、綾子を女将にしてしまう。雪は直之に暴力をふるわれ閨に誘われると、ずるずると言いなりになってしまう。菊中はしっかりしろと口で言うだけで、何もしてくれない。
 雪は居候の身分にされてしまうが、それは直之も同じだった。綾子は立岡とできていて、宇津保館は立岡のものになっていたのだ。真相を知らされた直之は呆然自失する。すべてを失った雪は菊中が常宿にしていた芦ノ湖畔のホテルにゆき、死を選ぶ。
 なよなよとした没落華族夫人を演じる木暮はラファエロ前派の絵から抜けだしてきたようで、日本人離れしたモダンな美しさに目を見張った。ただし、モダンな見かけにもかかわらず、中味は弱さで支配する日本的なファム・ファタルである。
 そんな雪に憧れ、無邪気に支える濱子の久我ははまり役だ。彼女のイノセンスぶりも罪だが。
 直之の柳永二郎は印象に残った。愚かで醜悪な駄目男だが、生まれついての愛敬があって憎めないのだ。この映画の柳は俳優としての筒井康隆に酷似している。
 逆に上原の演じる菊中は最初は颯爽としていたが、だんだん嫌な男の本性があらわになっていく。立岡の計略で酒の醜態を見せる場面など、やはりなと思った。
 山村聰はいい人のイメージが強いが、この映画ではしたたかな小悪党を演じていて、結構はまっている。
 直之と菊中の一筋縄ではいかない造形だけでも、溝口の容赦のない観察眼がわかる。

「お遊さま」

 谷崎潤一郎の「蘆刈」の映画化だが、原作をずいぶん変えている。
 原作は谷崎とおぼしい小説家が水無瀬の中洲で見知らぬ男の昔語りを聞くという夢幻能のような趣向をとっているが、映画の方は縹渺とした幻想味を吹き飛ばしたリアリズムである。
 骨董の老舗の若主人である愼之助(堀雄二)はお静(乙羽信子)と見合いをするが、付添ってきた姉のお遊(田中絹代)の方に一目惚れしてしまう。お遊は船場の大店に望まれて嫁していて、一児を設けたが、夫に死別していた。跡取り息子を育てるために婚家に残り、その代わり贅沢を許されている身で、愼之助が望んでも結婚できる相手ではなかった。
 愼之助はお遊と会いたいためだけにお静と交際をつづけ、お静と祝言をあげるが、結婚初夜にお静から自分は姉の心を察して嫁に来たので、あなたに体をまかせては姉に申し訳ないといわれる。お静との結婚がなったについてはお遊の後押しがあったこともわかる。お遊は崇拝者を身近にはべらせるべく、お静を利用したのだ。お静は姉に利用されることによろこびを見出している。愼之助とお静は夫婦関係のないまま、お遊と三人で楽しい日々をすごす。
 しかし、お遊の息子が急死すると状況は一変する。三人の不自然な関係が問題になり、お遊は実家に返され、別の家に再嫁することになる。
 愼之助の家は左前になり、東京に夜逃げをする。愼之助はお静を本当の妻にし一粒種に恵まれるが、貧困の中でお静は死に、息子を育てきれなくなった新之助は伏見の別荘で十五夜の宴をはっているお遊に息子を託し、行方をくらます。
 この展開は映画のオリジナルで、女王様に息子を押しつけて逃げるなどという結末はマゾ男にあるまじき所行である。原作は落魄した愼之助が毎年十五夜に幼い息子を連れてこっそりお遊の宴をのぞきにくるという終わり方をしている。女王様を影ながらお慕いしつづけるのがマゾ男の正しい身の処し方である。溝口は何でも許してくれる母親を求めていたにすぎず、マゾヒズムがわかっていなかった。
 原作では初対面時に愼之助28歳、お遊23歳、お静18歳だが、田中絹代のお遊は愼之助より年上の大年増に見える。お遊は若尾文子にやってほしかった。お静の乙羽は清楚で美しいが、東京に夜逃げをしてからはたくましい地が見えてしまう。お静がたくましくては興ざめだ。

2007年9月12日水曜日

集合知と無頭の悪意

 WikiScanner日本語版の余波がつづいている。朝日新聞は9月8日に「ウィキペディア 省庁から修正次々 長妻議員の悪口も」という記事を載せ、Wikipediaに対する役人の干渉を次のように具体例をあげて批判した。

 厚労省で検索すると、100件ほどの結果が表示される。趣味に関する書き込みも多いが、06年4月には「ミスター年金」の民主党・長妻昭衆院議員の項目に、「行政官を酷使して自らの金稼ぎにつなげているとの指摘もある」と書き加えられていた。
 宮内庁からの書き込みでは、06年4月、「天皇陵」の項で、研究者の立ち入りが制限されていることを巡り、「天皇制の根拠を根底から覆しかねない史実が発見されることを宮内庁が恐れているのではないかという見方もある」とあった部分が削除されていた。

 このほか、法務省からは05年10月、「入国管理局」の項目で、難民認定に関し、「外務省・厚生省ともに面倒な割に利権が全くない業務を抱えるのを嫌がり」と他省の「悪口」を追加。


 ところが、今度はその朝日新聞の社員がWikipediaに820件にもおよぶ加筆訂正をおこなっていたことがあきらかになったのである(J-CASTニュース)。
 当然予想されたことだが、820件はなかなかの数だ。読売新聞はもっと多く854件ある。新聞社はよほど暇なのだろう。
 Wikiepediaの記述を修正したら足跡が残るのは自明であって、会社のパソコンから修正したのは不用意だった。自宅やネットカフェのパソコンを使えばわからないから、こうした我田引水の修正の試みは今後もなくなることはないだろう。
 今回の騒動でWikipediaの信頼性が揺らぐと言っている人がいるが、そんなことは最初からわかりきったことである。
 わたしが興味深く感じるのは、Wikipediaの最初からいい加減でうさんくさい記述が、編集に介入する利害関係者という「主体」が発見されたとたん、急に問題にされるようになったことである。記述そのものは変わっていないにもかかわらず、だ。
 しかし、Wikipediaは「集合知」といわれているように、「主体」を希釈する仕組になっている。朝日新聞社員や霞ヶ関の役人のくわえた修正の多くはそのままの形で残っているわけではない。得体の知れない、おそらくは彼らほどの知識はもちあわせない多数の匿名の参加者によって原形をとどめないまでに加筆訂正されている。Wikipediaの記述を自分の思い通りに変えようとしても、シジフォスの営みになりかねないだろう。
 おそらく、Wikipedia的な「集合知」については二つの見方がある。一つは多数の「主体」がモザイクとして残存しているという見方、もう一つは個々の「主体」が消去され合力に化しているという見方。
 わたし自身は「集合知」はbotやコンピュータ・ウィルスと同じ「無頭の悪意」の類だと考えている。

2007年9月11日火曜日

horagai.comの模様替え

 horagai.comをアクセシビリティを考慮して、一部、模様替えした。
 アクセシビリティに問題があることは前からわかっていたが、直接のきっかけは昨日の日本ペンクラブ電子文藝館委員会で、を、ペンクラブ会員でユーディット社長でもある関根千佳氏に文藝館サイトをアクセシビリティの観点から採点していただいたことにある。
 御覧になればわかるように、horagai.comと電子文藝館はよく似ている。電子文藝館の原型はわたしが作ったので似ているのは当たり前なのだが、その後、ホームページ製作会社に移管し、独自のタグづけをするようになっていった。原型段階では文字の大きさはすべて相対指定してあったのに、文字の大きさを決め打ちにするなど、問題が生じるようになった。
 どこを直すべきかはわかっているつもりだったが、アクセシビリティの第一人者で、JIS X 8341の策定でも大きな役割をはたされた関根氏だけあって、気がつかなかった点を多数御教示いただいた。
 horagai.comを直接診断していただいたわけではないが、共通する訂正点がすくなくなかった。わかっているつもりでも、所詮、素人だった。
 とりあえず目次と索引を直したが、同様の改良は電子文藝館にもおこなうことになるだろう。
 他の問題点もだんだんに直していく予定だが、最大の問題はフレーム構造をどうするかである。
 horagai.comには文学だけではなく、演劇、映画、文字コードと、さまざまなジャンルのページがあるので、フレーム構造にする意義はあると考えているが、アクセシビリティ上、好ましくないことも確かである。
 腹案はあるが、大がかりな改修になるので、11月を目処に直したい。

「残菊物語」

 溝口の芸道物の傑作として名高い作品。原作は二代目尾上菊之助の苦闘時代を描いた村松梢風の同題の小説。
 二代目菊之助(花柳章太郎)は五代目菊五郎(河原崎権十郎)の養子で、音羽屋の若旦那としてちやほやされていたが、芸は拙く、裏では大根と揶揄されていた。本人もうすうす気がついて、養父に実子(後の六代目菊五郎)が生まれたこともあり、焦りを感じていたが、周囲はお世辞をいう者ばかり。
 そんな中、弟の乳母のお徳(森赫子)がずばり批評してくれ、菊之助はお徳に好意をもちはじめるが、身分違いの恋を周囲が許すはずはなく、引き離される。菊之助は秘かにお徳に会いにゆき、養父の怒りを買って勘当されてしまう。
 東京にいられなくなった菊之助は上方の尾上多見蔵(花柳喜章)を頼るが、芸はさっぱりで、多見蔵の顔でやっと役をもらえているありさま。
 一年後、お徳が菊之助のもとにやってくる。お徳は芸の力が出てきたと菊之助をはげまし、菊之助はやる気をだすが、頼みの多見蔵が急死する。菊之助はどさ回りの一座に身を落とす。
 希望のないすさんだ生活がつづき、お徳との仲にも隙間風が吹くようになる。名古屋の近くの町で不入りのために公演が打ちきりになり、座長が逃げてしまう。一座は女相撲に追いたてられ、空中分解。
 二人は木賃宿に投宿するが、旧友の中村福助(高田浩吉)が名古屋に来ていると知り、お徳は福助を楽屋に訪ねる。福助はお徳が身を引くという条件でとりなしを承知する。福助の尽力で「積恋雪関戸」の墨染という大役をまかされた菊之助は見違えるような芸を見せ、東京復帰がかなう。
 東京にもどる日、お徳は菊之助の前から姿をくらますが、辛酸をなめた菊之助は現実を受け入れるしかない。
 菊之助は実力が認められ、角座で凱旋公演を打という話までもちあがる。その頃、お徳は胸を病み、かつて二人で暮らしていた下宿屋に世話になっていた。
 道頓堀に舟乗りこみするという晴れ舞台を控えて菊之助は臨終のお徳と再会する。お徳は舟乗りこみを成功させてくれといって菊之助を送りだす。お徳は病床で道頓堀の歓声を聞きながら息を引きとる。
 明治18年から23年にかけての話を半世紀後の昭和14年に映画化したことになる。
 半世紀前は昔のようで昔ではない。現代に置きかえれば、八代目松本幸四郎の東宝移籍騒動が半世紀前で、その時行動を共にした染五郎は九代目幸四郎として現役である。平均寿命が今ほど長くはなかったとはいえ、関係者の縁者が現存していたわけで、映画化には微妙なものがあっただろう。
 そのせいかどうかはともかく、かなり禁欲的な撮り方をしている。長回しの上にカメラはあまり動かず、役者の芝居を淡々と見せるという演劇的な作りである。それだけに、舟乗りこみで屋形舟の舳先に立つ菊五郎と、病床のお徳をかっとバックするドラマチックであざとい結末がよけい際立ってくる。
 役者の中では無償の愛をつらぬくお徳の森赫子が断然光っている。新派では脇役で、花柳章太郎が強引にヒロインにしたらしいが、地味だからこそお徳の役にはまっている。

「マリヤのお雪」

 新文芸座の溝口特集で見る。
 1935年の溝口作品だが、およそ溝口らしくない駄作だった。溝口に風刺劇やドンパチは似合わない。
 原作はモーパッサンの「脂肪の塊」を翻案して新派の芝居にした川口松太郎の「乗合馬車」だそうだが、そもそも翻案に無理がある。
 16mmの上映だったが、フィルムの状態がひどかった。音は甲高く、場面によって音量が変化する。

2007年9月10日月曜日

漢字を好む若者世代

 9月7日、文化庁は平成18年度の「国語に関する世論調査」の結果を発表した。文化庁のホームページにはまだ出ていないので、新聞報道しかソースがないが、今回は漢字使用について調べていて、興味深い結果が出ている。
 ある程度予想はできたが、若い世代に漢字多用支持が増えていることがはっきりした。漢字多用支持の比率は20代で50%を越えているのに対し、60代では32%にとどまっている。
 「愕然がくぜん」、「闇夜やみよ」、「剥製はくせい」、「破綻はたん」、「玩具がんぐ」、「刺繍ししゅう」という表外漢字熟語6語の望ましい表記について尋ねたところ、3年前の調査と比較して「振仮名つき」派が13~17%減、「交ぜ書き」派が0~7%増、「漢字のみ」派が6~15%増だったという。この程度の熟語だったら、振仮名は必要ないという人が増えたのである。「役不足」の正答率も前回比で13%増だという。
 一方、「憂鬱」を仮名で書くか漢字で書くかを尋ねたところ、パソコンの場合は漢字で書く人が71%もいたのに対し、手書きの場合はわずか14%にとどまった。この結果はどうということはない。読めて書ける字より読めるが書けない字の方が多いのは当たり前だが、パソコン時代になり、読めるが書けない字が著しく増えただけのことである。
 ニュースサイトを日常的に読んでいる人は全体では32%だったが、20代は56%、30代は61%におよんだ。おそらく、60代以上では10%を下回るのだろう。
 パソコンになじめず、左翼的な教育をひきずった団塊世代に対し、パソコンを使いこなし、左翼マスコミの情報操作に気がついた若者世代という対立がここにもあらわれているのではないかと思う。

「オフサイド・ガールズ」

 パーレビ王政時代は欧米風のファッションの女性が街を闊歩し、女性の教育レベルが中東一高かったイランが、ホメイニ革命後、おそろしく窮屈な国になったのは御存知の通りである。女が男のスポーツを生で観戦することも禁止されているが、実際はあの手この手で競技場にもぐりこんでいるらしい。
 この映画はドイツ・ワールドカップの出場権をかけた試合を見ようとして失敗した女たちの話である。彼女たちは男装してはいろうとしたが、見つかって競技場の外通路に集められる。壁一つ向こうは観客席で応援の声が聞こえてくるのに、兵士が監視しているので見ることができない。彼女たちは兵士に男顔負けの悪態をつき、試合を実況中継しろとせがむ。
 映画の冒頭で競技場行きのチャーターバスを止め、娘を探していた老人が再登場するが、姪しかいなかったから、潜入に成功した女もすくなくないのだろう。一度知った自由の味は忘れられないということだ。まだ読んでいないが、『テヘランでロリータを読む』という本は女性のための地下読書会の実話だそうである。
 イラン女性のたくましさは救いだが、その一方、都市と田舎の絶望的な格差もこの映画から見えてくる。競技場に潜入を試みた女たちはみなテヘランっ子で、ダフ屋のふっかける法外な金額を出せるくらい裕福だが、彼女たちをとりしまる兵士は貧しい田舎の出身で、軍隊にはいる前は羊飼いをやっていたりする。彼らからみれば、男装してでもサッカーを見ようなんて、お気楽な都会女の我儘でしかない。家族を食べさせるために男装して働きに出る『少女の髪どめ』の難民少女とはわけがちがうのだ。
 厳格なイスラム原理主義はあの兵士たちのような貧しい草の根の人々に支持されているのだ。原理主義はこれからもつづくだろう。

2007年9月9日日曜日

金毘羅さんと江戸百図と自画像

 芸大美術館で「金刀比羅宮 書院の美」展を見た。金毘羅さんの門外不出の襖絵をまとめて見ることができる展覧会だけに混んでいた。
 三階の第一会場は順路の両側に畳も含めて書院を再現し、襖をはめこんである。襖絵は襖の両面に描かれているので、こういう展示法になったのだろう。
 まず、円山応挙。虎図が多いが、生きた虎を知らずに描いたので、迫力はあるが、どれも微妙に猫っぽく、愛敬がある。有名な「八方睨みの虎」は太りすぎのどら猫という感じである。
 岸岱は一番作品が多く、どれもすばらしかった。地味で手堅いというイメージをもっていたが、結構ゴージャスである。
 若冲は一間だけだったが、三面を花の図を整然と並べ、植物図鑑風である。照明は暗かったが、至近距離で見ることができた。色が昨日描いたかのように鮮かで、細部まで息苦しいくらい緻密に描きこまれている。ただ、若冲の過剰さは枠の決まった襖絵という場では必ずしもプラスには働いていないと思った。
 最後は現役の田窪恭治氏で、野原を描いた大作だったが、襖絵なのに壁画のような野放図なスケール感がある。ヨーロッパで礼拝堂のフレスコ画の修復を長くやっていた人だそうで、壁画の感覚が身についているのだろう。
 地下二階の第二会場は絵馬や奉納品の展示で、ここは神社らしい珍品がそろっていた。絵馬といっても、60インチの薄型テレビくらいある。大きさを張りあうような風潮があったのだろうか。象頭山の参詣図もよかった。
 船大工が作ったという和船の大型模型が二隻鎮座していた。三越の名前のはいった流し樽もあった。酒をいれた樽を海に流すと、拾った人がちゃんと金毘羅さんに届けたそうである。
 地下二階の大きな方の展示室では広重の「江戸百景」を展示していた。芸大美術館所蔵品の修復完了を記念した展示らしいが、金毘羅さんの入場料に含まれている。
 押し売りの展覧会かと抵抗があったが、見るとこれがおもしろいのである。
 馴染みのある地名ばかりだが、現在と同じなのは浅草寺と不忍池、湯島聖堂の脇の坂道くらいで、他はまったく変わってしまっている。
 説明文が興味深かったが、読みきれないので図録を買ってきた。説明文をじっくり読むと、面白さが倍加する。
 美術館を出たところに、NHKでやった「自画像の証言」展の案内があったのではいってみた。こちらは無料。卒業制作に自画像を描かせるのは洋画科だけだったが、最近は他の学科も自画像を描かせているそうだ。
 一階が戦前、二階が戦後という構成だが、二階は外光をとりいれて明るいこともあるにしても、色彩が急に華やかになる。戦前の作品はどれも重厚というか、重苦しい。大半は知らない画家だが、錚々たる画家もまじっている。
 最近の作品には小学生の夏休みの自由研究みたいなものまであって、これで卒業させていいのかと思った。
 芸大収蔵の自画像は修復や科学的鑑定の実習に使われているという。青木繁の自画像の科学的鑑定結果がはりだされていたが、手作りのキャンバスに描いていたことがわかったそうだ。
 思いがけず三つの展覧会を見ることができたが、二時間半かかった。炎天下、上野駅にもどるのが辛かった。

2007年9月6日木曜日

「ハッピー・フィート」

 ミュージカル仕立てのペンギン・アニメ。皇帝ペンギンは歌で求愛するという設定になっていて、ペンギンたちがスタンダードを熱唱する。
 この映画の中の皇帝ペンギンの世界では歌がすべてなので、音痴に生まれついた子供ペンギンは仲間外れにされ落ちこむが、自分にはタップダンスの才能があると気づいて自信をとりもどす。タップダンスをすごいと言ってくれたのは、アデリーペンギンの五人組で、髪にメッシュがはいっているところから、パンクに見立てている。
 子供ペンギンのふわふわした羽毛をデジタルで描くのが難しいらしいが、だからどうだというのだ。ドラマの演出がわざとらしいし、歌は上すべり。大体、ペンギンに歌を歌わせるのには異和感がある。
 こうやれば当たるだろうという計算で作ったのが見え見えで、しらけた。

「ラブソングができるまで」

 敗者復活もののラブ・コメディ。
 1980年代にアイドルだったアレックス(ヒュー・グラント)は今はどさ回りとTVの懐メロ番組で食べているが、人気アイドルのコーラからの指名で作曲することに。作詞家と気があわず難航していたが、植物の水やりのアルバイトに来ていたソフィー(ドリュー・バリモア)に作詩の才能があるとわかり、コンビを組むことに。後は予定調和で展開はすべて読めるが、主役二人の芸で最後まで楽しめた。
 ヒュー・グラントのぼけもいいが、ドリュー・バリモアの笑顔が絶品。最後はドリュー・バリモアの映画になっている。


2007年9月1日土曜日

グーグル八分発見システム

 「グーグル八分発見システム」というプロジェクトがIPAの未踏ソフトウェア創造事業に選ばれたそうだ(CNET)。プロジェクトの責任者は「悪徳商法?マニアックス」の beyond(吉本敏洋)氏で、自身、Google八分にあった経験があり、『グーグル八分とは何か』という単行本まで出している。
 国費を投じる事業になんと大胆なと思ったが、SETI@homeのような一般参加の分散処理システムという点が評価されたらしい。参加者のパソコンの空き時間を利用するシステムならいくらでも応用がきく。
 Googleの検索順位を他サーチエンジンや過去のGoogleの順位と比較するようだが、この記事で注目すべきは、ガードの固いので有名なGoogleからGoogle八分という微妙な問題でコメントをとっている点だ。
 Googleの広報は「どのページを検索結果に表示しないかという判断基準は、グーグルではなく法にある」と答えているという。具体的には次のような手続をとるようだ。

 グーグルの方針としてはまず、検索結果からの除外を求める人とそのサイトの管理者で話し合いをしてもらい、問題があるサイトを管理している人が当該コンテンツを削除するように求めているという。ただし、サイト管理者とコンタクトが取れないような場合は、どの法律に違反しているという理由を明記した上で、要望を書面でグーグルに送ってもらうようにしている。この書面を元に法律に違反しているかどうかを判断し、認められる場合には「グーグル宛に送られた法的要請に応じ、このページから1件の検索結果を除外しました」といった表記をした上で、検索結果に表示されないようにする。

 以前は乱暴なことをやっていたと思うが、社会問題になりかけているので火消しをはかったということだろうが、問題は 「グーグル宛に送られた法的要請に応じ、このページから1件の検索結果を除外しました」という断り書き(わたしはまだ見たことがない)がどこにどのように表示されるかだ。
 Googleは中国の言論弾圧に加担していることが批判されているが、中国でもこういう断り書きを出すのだろうか。もし出すのなら、尊敬するが。

2007年8月31日金曜日

雑誌のバックナンバーをどうする

 日本文藝家協会やJASRAC、日本漫画家協会、日本写真著作権協会、日本美術家連盟など17の著作権管理団体でつくる「著作権問題を考える創作者団体協議会」は著作物の権利者情報を検索できるポタールサイトを2009年1月開設を目指して構築すると発表した(ITmedia)。三田誠広氏が予告していた著作権者データベースがいよいよ具体化してきたわけである。
 「2009年1月開設を目指して」という言い方になっているのは、間にあうかどうかわからないからだろう。
 同種のデータベースとしては経団連などが開設した Japan Content Showcase がすでに公開されているが、ものものしい同意ボタンをクリックさせるのに、内容はないに等しい。日本図書コード(ISBN番号)を取得した書籍に関しては題名と出版社名、出版年が出てくるが、それ以上の情報はない。
 倒産・廃業した出版社の出版物を考えると、日本図書コードを取得した書籍のデータベースを整備するだけでも大変だが、新聞雑誌に発表された文章となるとデータベース化は絶望的に困難ではないか。出版事情はどんどん厳しくなっており、書籍にならない作品が増えている。文芸批評など書籍になる方がすくないくらいだ。
 雑誌は情報の宝庫だが、その電子化・データベース化は一部を除いて手つかずである。図書館でも雑誌の中味まではデータベースになっていない。
 文芸批評をやっていると過去の雑誌を閲覧することが多いが、掲載誌の巻号が間違っていると大変である。今は大学図書館の書庫にはいって調べることができるが、以前は絶望的だった。
 Googleや Yahoo、マイクロソフトの書籍電子化計画は、日本では大変な抵抗に遭っているが、雑誌の電子化に手をつけたらどうだろうか。雑誌のバックナンバーは現状では死蔵されているだけなので、これを電子化してくれるなら、読者にとってはもちろん、著者にとっても、出版社にとっても、図書館にとっても歓迎すべきことではないか。

「あしたの私のつくり方」

 原作は真戸香の同題の小説、監督は市川準。
 成海璃子の作品をはじめて見たが、恐るべき才能だ。
 成海は眉毛が濃いが、父親に石原良純、母親に石原真理子、兄に柄本時生と、彼女にあわせて眉毛の濃い役者を集めている。彼女にあわせたわけではないのかもしれないが、彼女の存在感がただならぬので、そう見えてしまう。子役の上手さではなく、すでに大女優の風格があるのである。
 寿梨(成海)が小学校六年生の時から映画ははじまる。寿梨は家ではいい子を演じ、学校では中庸の快活な子のふりをして、周囲から浮かないように気を配っている。両親はことごとにいがみあっているが、寿梨のお受験に関してだけは意見が一致しているので、寿梨は受験勉強に身をいれざるをえない。
 寿梨はお受験のために一週間学校を休むが、落ちてしまう。登校してみると、クラス委員で人気者の花田日南子(前田敦子)がシカトされていた。寿梨は日南子に憧れていたが、いじめられる側に回るのが怖いので、シカトにくわわる。一方、それまでいじめられていた少女が寿梨の落ちた私立に合格していた。
 卒業式の後、本を返すために図書室にいくと、日南子がいたので声をかける。日南子は二人だけだと口をきいてくれるんだねと皮肉をいうものの、「本当の自分」と「嘘の自分」があるという話をする。周囲にあわせることに無理を感じていた寿梨は日南子の言葉に強い印象を受ける。
 中学になると、寿梨の両親はいよいよ離婚し、家は処分することになった。寿梨は母親に引きとられ、杉谷姓から大島姓に変わる。日南子の方はいじめられっ子をつづけていた。
 高校に進学してから、寿梨は日南子が田舎に引っ越したという噂を聞く。小学校の卒業の日に聞いた「本当の自分」と「嘘の自分」という話がずっと気になっていた寿梨は日南子の携帯の番号を教えてもらいメールを出すが、「本当の自分」と「嘘の自分」という話をもちだしても、思いだしてもらえない。
 寿梨は正体が知られていないことに気安さを感じ、コトリと名乗って日南子に頻繁にメールを出し、人気者になるコツをレクチャーしはじめる。日南子はコトリのメールの通りにふるまい、新しい学校で人気者になっていく。
 たまたま寿梨は所属の文芸部で小説を書かなければならなくなり、コトリ名義のメールを小説の題材に使うことを思いつく。母の再婚話がもちあがる中、寿梨はコトリという架空の人格にのめりこんでいくが、日南子の方はコトリのアドバイスで作りあげた人気者のキャラを拒否しはじめる……。
 市川準作品は澄まし汁のような淡白な味わいが身上だが、この作品の場合、寿梨の家族に石原良純や石原真理子のような脂ぎった生臭い役者を使ったために、バランスが崩れてしまった。W石原はミスキャストだ。特に、石原真理子はいけない。
 二人の主人公のうち、前田敦子は冴えない。泥臭くて、どう見ても人気者だったことがあるようには見えない。
 しかし、こういう致命的な欠陥があるにもかかわらず、作品そのものはおもしろかった。成海璃子一人の力といってよい。あまりにも早く大人にならなければならなかった少女の痛みがびんびん伝わってくる。終盤、思い出の家がお受験で合格したクラスメートのものになっていたことを知る場面の悲しみは、さりげない表現だけに、よけい痛切である。

「恋する日曜日 私。恋した」

 BS-iがDocomoの提供で放映している「恋する日曜日」シリーズから生まれた映画だそうである。監督は「ヴァイブレータ」の廣木隆一。
 病院の場面からはじまる。なぎさ(堀北真希)は母を癌で失い、父(若松武史)と二人暮らしをしていたが、母と同じ癌で三ヶ月の余命と宣告される。
 夏休みだったこともあり、なぎさは家出をし、かつて住んでいた銚子を訪れるが、家はすでになく、幼なじみの聡(窪塚俊介)の家に転がりこむ。
 聡の両親は新しい家に移り、古い家には家電製品の回収をやっている聡が一人で暮らしていた。なぎさは聡に対する思いを深めるが、聡は絵里子(高岡早紀)という年上の女性とつきあっていた。絵里子は離婚調停中の夫と別居し、娘のまどかと二人で暮らしていたが、スナックが忙しく、まどかに寂しい思いをさせていた。
 なぎさはまどかと遊んでいるうちに、聡を奪った絵里子から娘を奪ってやろうという気持ちがわきあがってくる。なぎさはまどかを連れて海岸にいき、台風で荒れた海に彼女の手を引いてどんどんはいっていく。堀北の何を考えているかわからない美少女ぶりがこの場面の緊張を高めた。
 一方、絵里子の家ではまどかがいなくなって大騒ぎになっていた。一人でもどったなぎさはなにくわぬ顔でまどか探しを手伝うが、まどかが父のところへいっているかもしれないと思い、別居中の絵里子の夫を訪ね、必死に訴える聡の姿を見せつけられる。
 なぎさがまどかを殺しているかどうかが中盤のサスペンスになるが、実は小屋に隠していただけとわかる。その後がいけない。緊張が緩み、画面ががたがたになってしまったのだ。
 なぎさは絶対に許されないことをしているのに、余命いくばくもないとわかると、あっさり許される。なんと安直な。ラスト、なぎさは他に乗客のいない乗合バスで、バスガイドのまねをするが、まったく意味不明。わけのわからない芝居をさせられている堀北真希が可哀想だった。
 途中まではよかったが、安易に難病ものにしたために破綻したというしかない。
 役者では高岡早紀が姉御の貫禄で、堀北を完全に食っていた。
 映画の内容とは関係ないが、銚子の街の寂びれ方にショックを受けた。地方の疲弊というが、ここまで進んでいたのだ。

2007年8月30日木曜日

「シッコ」

 アメリカの健康保険制度をムーア流に料理したドキュメンタリー。SiCKOとは「病人」という意味だそうである。
 最初に健康保険にはいっていない人の悲惨な例をいくつか紹介した後、「でも、この映画は彼らの映画ではない」と断って本篇にはいる。多種多様な実例を軽快なテンポで紹介し皮肉をきかせる手際は健在で、「ボウリング・フォー・コロンバイン」の調子をとりもどしている。
 ムーアがホームページで健康保険に関する情報提供を募集したところ、被害者側の情報だけではなく、保険会社に勤務していた人からの内部告発がかなりあったようだ。
 保険会社にムーアにたれこむぞといって、手術の費用をかちとった人の例で笑わせた後、最初の山場が来る。良心の呵責を感じて辞めた元電話係と元交渉係、査定にあたった医師の三人が顔をさらして出演し、最後は涙で自分のやったことを告白したのだ。アメリカではこういう告白が一番説得力をもつ。
 日本では個人が組織に埋没してしまうので、両親にもとづく内部告発はあまりないらしい。アメリカのいい面である。
 次の山場は9.11の救助活動と後始末にボランティアで参加した人たちの悲惨な現状だ。正規の消防士や警察官が後遺症に悩まされ、十分な補償がなされていない話はこれまでにも伝えられてきたが、ボランティアはまったく補償を受けられずにいて、さらに悲惨だ。災害のボランティアをやる人は、ボランティアで現場にいたという証明をとっておく必要がある。
 気のめいる話がつづいた後、外国の保険制度が紹介される。カナダ、英国、フランスの三ヶ国で、アメリカと比較してはもちろん、日本と比較してさえ天国に見える。多分、誇張と言い落としがあるのだろうが、病気を治すためにカナダにいくアメリカ人がいるのは事実だそうだ。
 最後のクライマックスは9.11の後遺症の満足な治療を受けられない元ボランティアを引き連れ、グアンタナモ基地に上陸かとはらはらさせた後、キューバに乗りこむ場面である。グアンタナモ基地が出てくるのは、グアンタナモ基地に収容されているアルカイダの容疑者は無料で医療が受けられるからだ。
 キューバ政府は一行をあたたかくむかえ、必要な治療を無料でおこなって帰したが、あの部分は眉に唾をつけた方がいいかもしれない。キューバは長らく経済制裁を受けており、医薬品がそんなに豊富とは考えにくいからだ。
 この映画の政治的影響は日本でも大きいと思う。健康保険の負担が来年からさらに増えるからだ。TVで放映されるのは来年の夏だろうが、選挙の行方を左右するくらいのインパクトがあるかもしれない。

2007年8月29日水曜日

「トプカプ宮殿の至宝展」

 東京都美術館で「トプカプ宮殿の至宝展」を見た。2003年の「トルコ三大文明展」もすごかったが、今回も見ごたえがあった。
 まず、絵画と文書類。花押入りの文書は何度見ても圧倒される。『わたしの名は紅』を読んだばかりだったのでミニアチュールが見たかったが、数点しかなかった。
 ついで、儀式用の武器類。金や銀で作られた斧、棍棒、兜、弓矢、火縄銃で、どれもおそろしく手がこんでいる。お約束の飴玉くらいあるエメラルドを柄にはめこんだ短剣もあった。
 スルタンのターバン飾りが今回の目玉だったが、クラッカーくらいあるエメラルドを中心に羽があしらわれ、派手である。巨大なエメラルドには魔力があるらしく、見ているだけでドキドキしてくる。
 ハレムの品々も充実していた。『アラビアンナイト』に出てきそうな装身具や調度品、楽器、衣服の本物がこれでもか、これでもかと並んでいるのである。スプーンや高下駄のような浴室用サンダル、さらには出産用の椅子まで展示されていた。細く繊細に作られており、華奢な感じがした。出産用の椅子は板が1cmくらいしかなかった。特別な木で作られているのだろうか。
 螺鈿細工の揺籠もあったが、それとは別に、一点しか残っていない黄金貼の揺籠が悠仁親王誕生を祝って特別展示されていた。構造は中央アジアや新疆で使われているものと同じだが、小便用の穴は開いていなかった。
 ガラス製のチェスの駒があったが、円柱を基本にしたモダンなデザインで、宝石がアクセントになっていた。宝石はともかくとして、あれをコピーしたら欲しい人が多いのではないだろうか。
 トルコ特産の薔薇の香水をたきこめた一角があったが、日本でいう薔薇の香りの涼やかさとは対照的な重苦しいまでに甘い香りだった。
 最後の部屋は中国陶磁器のコレクションだが、トルコ風に改造したものが珍らしかった。壺に蓋をつけるくらいならわかるが、花瓶の横腹に穴を開け、蛇の鎌首のような注口をつけて水差にしてあったりするのである。黄金より高価だったといのに、スルタンは豪快である。

2007年8月28日火曜日

「エレンディラ」

 マルケスの同題の短編集を坂手洋二が脚本化。演出は蜷川幸雄。
 グェッラ監督の映画は短編「エレンディラ」だけを脚色したが、この芝居は「大きな翼のある、ひどく年取った男」、「奇跡の行商人、善人のブラカマン」、「愛の彼方の変わることなき死」など、短編集の他の作品をとりこんで世界を広げている。一冊の短編集をまるごと脚本化したに等しく、上演時間は四時間になんなんとする。
 印象的な場面がたくさんある。
 まず、エレンディラの登場シーン。カーニバルの熱狂の中、狂言回しのインディオの夫婦が口上でエレンディラの美しさをことほぎ、期待をいやがうえにも高めた後、舞台の一番奥からエレンディラがしずしずとあらわれる。その後ろにお婆ちゃん(嵯川哲郎)のはいった浴槽がつづき、広場はお婆ちゃんのお屋敷に一変するのだが、さいたま芸術劇場の大ホールは舞台の奥行がおそろしく深く、エレンディラは歩いても歩いてもなかなか近づいてこない。観客の目は釘づけになる。こういう演出は都心の劇場では無理だ。
 映画はクラウディア・オハナの美少女ぶりが評判になったが、美波も美少女である。初舞台が四時間出ずっぱりの主役、しかもヌードありとはエレンディラの運命なみに過酷だ。
 映画ではイレーネ・パパスがやったお婆ちゃんは嵯川哲郎が肉襦袢を着こんで演じた。入浴場面などで裸になるが、作り物とはいえ、ぶくぶく太ったグロテスクなヌードはど迫力。
 火事の後では本水で雨を降らせ、度肝を抜いたが、何度もくりかえすのはいただけない。
 舞台を大きく円を描いて進む砂漠の行進は見ものだ。長い柄につけたコウモリ傘をかざしたエレンディラを先頭に、輿に乗ったお婆ちゃんと、黒いトランクに手足の生えた父と祖父の死体、美術品をかついだインディオの行列がつづき、最後に写真屋が自転車を押して歩く。なんともシュールな光景。
 一幕の最後のエレンディラとウリセス(中川晃教)が結ばれる条はこの芝居で最も美しい場面である。客をとりすぎて下腹部が棒で殴られたように痛みだしたエレンディラは急遽休むことになる。行列を作っていた客は帰されるが、翌朝には出発しなければならないウリセスはあきらめきれず、エレンディラのテントの周りを徘徊する。二人は出会い、エレンディラはウリセスを受けいれ、はじめて歓びを知る。原作では一頁足らずの短いエピソードだが、坂手と蜷川はここを無垢な恋人たちの哀切で叙情的な山場に変えた。
 二幕ではエレンディラは修道院に監禁されるが、お婆ちゃんの策略で偽装結婚させられ、再び娼婦生活にもどる。お婆ちゃんは修道院事件に懲りて上院議員に接近し、商売はいよいよ繁盛する。
 一方、家にもどったウリセスはエレンディラが忘れられず、ダイヤのはいったオレンジを盗んで家出する。ウリセスはエレンディラと再会し、駆落するが、上院議員と結託したお婆ちゃんは警察を使い、二人をすぐに捕まえてしまう。エレンディラは娼婦稼業にもどされる。
 エレンディラのテントには男たちが長蛇の列を作り、他の娼婦の妬みを買ってしまう。娼婦たちはエレンディラをベッドごと拉致し、通りでさらし者にする。ベッドに鎖でつながれた全裸のエレンディラの怯えた姿が痛々しい。
 三幕ではエレンディラはお婆ちゃんの言い訳を聞いてはじめて洗脳が解け、お婆ちゃんを殺そうと思うが、自分では実行できない。ウリセスが実行役となるが、怪物的なお婆ちゃんはなまなかなことでは死なない。エレンディラは満足に人も殺せないのとウリセスをなじるが、彼女はもはや無垢な少女ではなくなっている。
 ウリセスはやっとお婆ちゃんを殺すが、エレンディラは金の延棒を縫いこんだチョッキを着こんで一人で逃げてしまい、ウリセスは殺人犯として捕らえられる。『ロリータ』のような無残な結末である。
 原作はここで終わるが、芝居は短編集の他の作品のエピソードを取りこんで、殺人を犯してなお無垢なウリエセスのその後の運命を語り、さらには「タンゴ、冬の終わりに」のようなマルケス的とは言いかねる結末をつけた。原作の結末が芝居向きでないのは確かだが、この終わり方は苦し紛れのような印象を受けた。
 記憶に残るすばらしい場面がいくつもあるし、エレンディラの美波、ウリセスの中川ともに好演だが、四時間は長すぎた。インディオの夫婦がつとめていた狂言回しが三幕にいたって、急にマルケス本人を思わせる作家(國村準)に変わるのも解せない。最初から作家を狂言回しにしていた方がわかりやすかったろう。
 混沌が命の芝居であるが、もうちょっと整理した方がよかった思う。

2007年8月26日日曜日

「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」

 「ハリー・ポッター」シリーズの五作目である。不死鳥の騎士団という秘密結社が登場し、ヴォルデモート復活を認めない魔法省と戦う。魔法省の方もハリーたちを監視するためにアンブリッジという口うるさい女教師をホグワーツに送りこんでくる。
 ヴォルデモートとの本格的な対立の前に、善の側の体制を整えるために権力闘争をおこなう話で、それに思春期をむかえたハリーの葛藤や大人への不信をからめている。裏切りがあいつぎ、ハリーは孤立し、苛立っている。
 ハリーの成長物語の上では要になるのだろうが、見ていてしんどい。登場人物を増やしたのは逆効果だったと思う。

2007年8月24日金曜日

民衆の語る文革

 20日から23日まで、NHK総合で「民衆が語る中国・激動の時代~文化大革命を乗り越えて」を放映していた。
 文革については多くの本が出ているし、ドキュメンタリー番組もすくなからず製作されてきた。この番組は文革にかかわった、あるいは巻きこまれた40人以上の中国人に長時間のインタビューをおこない編集したもので、渦中にいた民衆みずからが語った点が新鮮である。40年たって、ようやくこういう番組が作れるようになったということだろう。
 第1回は文革の発動から高揚期、第2回は激化する武闘と林彪事件、第3回は下放政策、第4回は文革の終焉がテーマだった。
 最初の2回はみな妙に楽しそうに思い出を語っていた。元紅衛兵がなつかしむのはわかるが、被害にあった人まで熱っぽく語るのだ。ひどい話がたくさん語られたが、それでも彼らにとっては青春だったということだろう。
 ところが第3回で下放の話になると、みな一様に口調が重くなり、表情が曇る。文革の熱狂は一過性だったが、下放は都市戸籍を失うことであり、その後の一生を決定したからだ。
 最初は幹部の子供も平等に下放されていたが、文革が一段落するとすぐに都市にもどれた。しかし、コネがないと地方に埋もれることになった。出身が悪いと、いくら頑張って村で推薦されても、都市にもどるのは不可能だったという。多くの人にとって、下放は終わっていない。
 意外だったのは林彪事件の評価だ。毛主席の「もっとも忠実な戦友」にして後継者が、一夜にして売国奴になったという異常事態を国民に納得させるために、林彪直筆の「五七一工程」に関するメモを公開したが、そこに書かれている毛沢東批判と文革批判を読み、本当のことが書いてあると直感したと異口同音に語っていた。自分の頭で考えはじめるきっかけになったと証言する人が何人もいた。表向きは「批林批孔」を叫んでいても、本心は別だったわけだ。

「レ・ミゼラブル」

 日本初演から20年目をむかえた公演で、キャストが一新している。この作品を見るのは7回目か8回目だと思うが、新キャストでははじめてだ。パンフレットは今回のキャストを紹介した赤版と、20年間を回顧した青版の二種類出ていた。
 男性陣は全般にすぐれている。今井清隆のジャン・バルジャンは滝田栄に似たタイプ。歌は滝田より聞かせるが、アクがやや不足。
 石川禅のジャベールははじめて見るタイプで、歌がうまいが、サラリーマン刑事という感じで怖さが足りない。ジャベールは怪物でいてくれないと困る。
 泉見洋平のマリウスは多分、最高のマリウス。仲間を偲ぶ歌は絶唱。線が細いかと思ったが、マリウスはもともと線の細い役であり、これでいいのだ。他の学生たちもすばらしく、乾杯の歌はぞくぞくした。ガブロシュもよかった。
 徳井優のテナルディエは期待したが、歌がお粗末。他がうまいだけに、余計下手に聞こえた。
 女性陣はふるわない。山崎直子のファンテーヌは陰気すぎるし、声が伸びない。坂本真綾のエポニーヌは不安定。コゼットの辛島小恵はオペラ出身らしいが、台詞と歌のつなぎ目が変。たまたまひどい日に当たったか。
 女性で唯一よかったのがテナルディエ夫人の森公美子。多分、最強のテナルディエ夫人で、鳳蘭よりいいかもしれない。
 夏休みなので子供連れが多かったが、おとなしく聞いていた。
 なお、「レ・ミゼラブル」ファンなら、ハイライト版でかまわないから、英語の歌詞を聞いておくことをお勧めする。もともと英語をのせるために作曲された曲なので、子音の響きがメロディーに消えていくところなど、日本語の歌詞からは想像ができないくらい繊細で甘美なのである。

2007年8月21日火曜日

中国の太平洋分割案

 共同電が「中国、太平洋の東西分割提案か」という物騒な記事を配信した。最近、訪中したキーティング米太平洋軍司令官に中国側が「太平洋を東西に分割し東側を米国、西側を中国が管理する」ことを提案したというのだ。
 分割線がどこかは書いていないが、グアムになるにせよ、ハワイになるにせよ、日本が中国側管理区域にとりのこされることになる。見逃せないのは次の一節だ。

 米政府内の親中派の間では提案に前向きな受け止めもあったが、国防当局は西太平洋の覇権を中国に譲り渡す「大きな過ち」だと主張。日本などアジアの同盟国との関係を台無しにしかねないとして断ったという。


 アメリカは今は断っても、将来どうなるかわかったものではない。防衛を他国に頼ることの危うさに目を向けるべきだ。
 中国が軍事力を増強しつづけるのは間違いないが、ただし「中国、自動車生産2010年に日米を逆転も・1600万台計画」というような中国経済脅威論には眉に唾をつけた方がいい。
 宮崎正弘氏は「中国の成長率が10-11%とは「真っ赤な嘘だ」でレスター・ソローの推計を紹介し、電力消費と購買力平価からいって 4%の成長も怪しいと指摘している。
 中国は独裁体制なのをいいことに、無理に無理を重ねていると見た方がいい。そして、だからこそ危険である。経済破綻が生じた場合、軍事的緊張で国内の不満をそらすのが独裁体制の常套手段だからだ。

「モータサイクル・ダイアリーズ」

 医学生だった22歳のゲバラ(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、化学技師をやっていたアルベルト・グラナード(ロドリゴ・デ・ラ・セルナ)という青年とともに南米大陸を南の端から北の端までバイク旅行をした。その時の旅日記を映画化したのがこの作品である。
 バイク旅行といっても、バイクはチリにはいったところで壊れてしまい、後は徒歩とヒッチハイクである。世慣れたグラナードにくらべてゲバラは潔癖でナイーブだったが、すくない所持金で旅をつづけていくうちに世術を身につけたくましくなっていく。
 裕福な家庭で育ったゲバラはこの旅で社会の矛盾を目のあたりにするが、映画は二つのエピソードをとりあげている。
 第一は警察に追われているインディオの夫婦との出会い。共産党に関係したために二人は家を焼かれ、指名手配を受けていた。わかれる時、ゲバラは恋人からもらった虎の子のドルをわたしている。
 第二はハンセン氏病の療養施設。ゲバラはハンセン氏病を専門にしていて、旅に出る前、ハンセン氏病の権威の医師に手紙を出していた。旅費が底をつき、二人は医師宅にしばらく居候するが、奥地の療養施設を紹介される。施設は修道会が運営していたが、患者を河の真ん中の島に隔離し、患者に触れる時にはゴム手袋をするとか、ミサに出ない患者には昼食をあたえないとか、理不尽な規則がある。ゲバラとグラナードはゴム手袋を拒否して対等に接し、深い友情が生まれる。
 映画の最後には老いたグラナード本人が登場する。映画で描かれるグラナードはラテン気質そのままの女好きの軽い男だが、キューバ革命の成功後、彼はゲバラに招かれてカストロ政権の一員となり、要職を歴任したという。赤い貴族になったということか。
 グラナードはこの映画にアドバイザーとして参加し、その模様は「トラベリング・ウィズ・ゲバラ」というドキュメンタリー映画になり、日本でも公開されている(DVDは単体では発売されず、コレクターズ・エディションの特典ディスクに収録)。
 ロマンチシズムあふれるいい映画だったが、素直に楽しめたのはゲバラが夭折したからだと思う。老醜をさらしたり、仲間に粛清されていたら、ゲバラ神話は生まれていなかったろう。

「ボビー」

 ロバート・ケネディが暗殺された1968年6月5日のアンバサター・ホテルの一日を描いた、文字どおりグランド・ホテル形式の作品。
 宿泊客、ホテルスタッフ、元従業員、出演している歌手、選挙運動員など22人が登場する。ホテルの裏方が多いが、理由は最後にわかる。彼らは暗殺現場にいあわせた実在の人物をモデルにしているのだ。ロバート・ケネディは選挙本部で勝利を宣言した後、厨房を抜けて外に出ようとした時に暗殺された。厨房が現場なので、ホテルの裏方が多くなったのである。
 引退したドアマンにアンソニー・ホプキンス、アル中の歌手にデミ・ムーア、そのヒモ兼マネージャーにエミリオ・エステヴェス、ベトナム行きを逃れるために偽装結婚する青年にイライジャ・ウッド、支配人の愛人兼電話交換手にヘザー・グレアム、その他、シャロン・ストーン、ヘレン・ハントといった大所が出演しているが、日本の映画にありがちのにぎやかしではなく、本人とはわからないメークで登場し、本格的な芝居をしている。
 ロバート・ケネディを今とりあげたのはイラク戦争のためだろう。ロバート・ケネディは泥沼のベトナム戦争に終止符を打ってくれるヒーローとして待望された。ロバート・ケネディが大統領になったとしても、ベトナムからニクソンより早く撤退できたかどうかは疑問だ。暗殺場面にかぶせて最期の演説が思いいれたっぷりに流れるが、わたしにはピンと来なかった。

2007年8月18日土曜日

「五木寛之 21世紀・仏教への旅」日本・アメリカ編

 「仏教への旅」最終回は五木寛之が近年関心をもっている他力の思想がテーマだった。
 五木は他力という観点から半生をふりかえった『他力』を1998年に出版したが、この本は "Tariki" として英訳され、ニューヨークではベストセラーリストにはいるほどの売行を見せたという。
 他力の思想をアメリカ人に問いかけるのが今回の趣旨だが、結果はすれ違いに終わった。日本の武道を教えているオヤジが "Tariki" に感動したと熱っぽく語っていたが、あれはどう見ても日本ヲタクの一方的な思いいれだ。9.11の遺族で、イラク戦争に反対しているお婆さんが出てきたが、自分の活動の範囲でしか語っていなかった。
 チベット仏教の権威のロバート・サーマン氏も登場したが、他力思想は知識として知っているだけで、特に関心をもっているわけではなかった。
 番組では触れていなかったが、彼は女優のユマ・サーマンの父親である。ユマ・サーマンは子供時代にヒッピーの父親にひっぱりまわされてインドを放浪したとインタビューでこぼしていたが、そのヒッピーの父親がロバート・サーマン氏なのである。"Inner Revolution" などチベット仏教関係の著書が多数あり、"The Jewel Tree of Tibet" という講義のCDも出ている。
 "Tariki" を読んだキリスト教の説経師が五木に、生きようという意志があったから、敗戦の混乱の中で生きのびることができたのだろうと反論していたが、あれがアメリカ人の本音だろう。最後にアメリカで成功した禅僧が登場し、自力と他力は一致すると語っていたが、アメリカ人にはそこまではわからないのではないか。
 アメリカは努力をよしとする文化なので、禅やチベット密教のような厳しい修行をともなう仏教は受けいれられやすいが、他力の思想は一番受けいれられにくいのではないかと思う。エイズで死にかけている人とか、罪を認めている死刑囚とか、努力が無意味になった人に問いかければ別かもしれないが、相手を間違えている。

2007年8月17日金曜日

「五木寛之 21世紀・仏教への旅」中国・フランス編

 「仏教への旅」第4夜は禅宗をとりあげていた。本は『21世紀 仏教への旅 中国編』が出版されている。
 まずフランスの禅ブームを紹介し、次に禅の源流である中国を訪ねるという段取である。
 フランスの禅ブームはブームとはいっても、一過性の底の浅いものではなく、社会の一角にしっかり根をおろしているようである。
 今日の禅の隆盛をもたらしたのは弟子丸泰仙師だった。弟子丸師は1967年にフランスにわたり布教をはじめたが、まず1968年の5月危機で挫折し、方向を見失っていた学生の心をつかみ、しだいに地歩を固めていった。今ではインテリのみならず、ビジネスマンや労働者に間にも禅の実践者が増えているという。弟子丸師は禅を宗教としてではなく、心を安静にする技術として伝えたので、カトリックの内部でも禅がおこなわれている。
 弟子丸師は自分は種をまいただけで、フランスにはフランスの禅があるから、日本の禅のまねをする必要はないとくりかえし語っていたそうだ。そうはいっても、コアな修行者は日本の禅寺そっくりの道場を作り、厳粛な修行をおこなっているようだ。キリスト教には修道院の伝統があるから、禅寺のスタイルはそれほど抵抗がないのかもしれない。
 中国編は禅を中国化し、民衆に根づかせた六祖慧能が中心だった。五木は慧能の創建した南華寺を訪れた。住職はこの寺の僧侶はみな慧能直系の弟子ですと胸を張っていたが、驚いたのは自由な座禅のスタイルだ。団扇であおぎながら座っているのである。これが南宗禅なのか。慧能の自由闊達な精神は禅宗よりも道教がうけついだと道教関係の本に書いてあって、それを真に受けていたが、どうもそうではなかったようである。

「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」

 フィルムの状態はひどく悪かったが、これは傑作中の傑作。筒井康隆が『不良少年の映画史』で絶賛するのもわかる。
 柳生藩の国元で家宝の「こけ猿の壺」に軍資金百万両の地図を隠してあったことがわかり大騒ぎになる。家宝とはいっても汚い壺なので、藩主の対馬守(阪東勝太郎)が江戸の千葉道場に養子に出した弟、源三郎(沢村国太郎)にあたえてしまったからだ。対馬守は壺をとりもどすために家老の峰丹波(磯川勝彦)を江戸に急行させる。
 江戸ではそんなこととは知らず、壺を屑屋に売ってしまう。家老に秘密を打ち明けられた源三郎は壺を探すという名目で外出するが、百万両には関心がなく、矢場にいりびたって暇をつぶす毎日。
 源三郎は柳生家の生まれとはいっても剣術はからきし駄目のぐうたらだが、画面に登場するだけで春風駘蕩の気がかよう。沢村国太郎という役者、中村梅之介に似ていると思ったが、前進座とは関係がなく、沢村貞子の兄にして長門裕之・津川雅彦の父親だった。
 源三郎のいりびたっている矢場はお藤(喜代三)という歌のうまい女将が切盛りしているが、そのお藤の亭主格が丹下左膳(大河内傳次郎)で用心棒を兼ねている。
 源三郎が常連になる直前、矢場では事件があった。七兵衛(清川荘司)という客がチンピラにからまれ、殺されたのだ。お藤と丹下左膳は七兵衛の一人息子の安吉をひきとっていたが、安吉のもっていたのが「こけ猿の壺」。金魚を飼うために隣の屑屋の二人組からもらったものだが、百万両の地図が隠してあるとはもちろん知らない。
 お藤と左膳は安吉のことでなにかと気をもむが、このやりとりが絶品で思わず微笑む。大河内傳次郎のコメディの才能を見抜いた山中貞雄はすごい。
 ニヒルな剣士を子煩悩なマイホーム・パパにされてしまい、原作者の林不忘はおかんむりだったそうだが、皮肉にもこの作品のおかげで丹下左膳は不滅のキャラクターとなった。
 ゆるい作りに見えるが、最後まで見ると伏線がすべて解決されていて、意外にも首尾一貫している。ハイカラなコメディを江戸の遊興文化にとけこませた山中は天才の名に値する。

「人情紙風船」

 昔見た時はなんと暗い救いのない映画だろうと辟易したが、今回見て、確かに日本映画を代表する傑作の一つにちがいないと確信した。
 ベースは河竹黙阿弥の「髪結新三」で、前進座がユニット出演している。小悪党の新三(中村翫右衛門)が白木屋の娘お駒(霧立のぼる)が縁談を嫌がっているのにつけこんで誘拐し、身代金をせしめるストーリーは同じだが、同じ貧乏長屋に住む浪人海野又十郎(河原崎長十郎)の仕官話をからませている。
 海野はわけありで浪人したらしく、かつて父親が出世の糸口を作ってやった毛利三左衛門(橘小三郎)を頼るが相手にしてもらえない。毛利は白木屋のお駒を高家の嫁にしようと奔走しており、海野は毛利への当てつけから新三の誘拐に加担することになる。
 白木屋と懇意のヤクザ、源七(市川笑太郎)が調停に失敗し、大家の長兵衛(助高屋助蔵)が間にはいっておさめ、身代金の半分をさらっていくのは同じだが、一部は海野にもわたされ、それを恥じた海野の妻は海野を殺して自分も自害する。面目を失った源七は乾分たちに命じて新三を惨殺する。
 新三も大家も歌舞伎より悪の部分が減って、人情味のある味のある人物になっている。小悪党ながら意地を見せる翫右衛門の新三は記憶に残る。
 陰鬱な物語を引き立てているのは長屋の住民たちの刹那的な明るさだ。冒頭、長屋で首吊り自殺があるが、新三が大家から通夜の酒代をせしめると、首吊りをネタに宴会で大いに盛り上がる。彼らは海野夫婦の心中も新三の死も、活力に変えてしまうだろう。やけっぱちの明るさである。1937年の世相が反映しているのだろうが、案外、江戸の庶民とはこういう人たちだったかもしれない。

2007年8月16日木曜日

「五木寛之 21世紀・仏教への旅」ブータン編

 「仏教への旅」第3夜はチベット仏教を国教とする唯一の国、ブータンをとりあげていた。本は『21世紀 仏教への旅 ブータン編』が出版されている。
 ブータンは1970年代まで鎖国をつづけていたので「秘境」のイメージが強いが、今は多くの外国人が訪れ、衛星放送やインターネットで情報が流入しているのは「ザ・カップ 夢のアンテナ」を見てもわかる。
 ブータンは近代化途上の国だが、近代化には地域差がある。ブータンは九州程度の面積とはいえ、ヒマラヤの山腹にひろがっているために、数千メートル級の山脈によって国土が細かく分断され移動がままならない。五木寛之一行も相当難渋していた。
 五木は近代化のある程度進んだ首都近辺と、ブータン古来の姿をとどめる中央ブータンの二ヶ所でブータン仏教の現在をさぐった。中央ブータンの方は大体予想通りの映像で、首都近辺の方が興味深かった。英語はブータンの公用語の一つになっているが、ドテラのような民族衣装の人も普通に英語を喋っていた。英語で答えることのできる人のインタビューだけを選んだのだろうが、英語の普及度は高そうだ。服装は欧米風も多かったが、当たり前にマニ車をまわし、インタビューされると輪廻転生の世界観と仏教の教えを語り、ブータンの代名詞のようになっている「国民総幸福量」(Gross National Happiness)にふれた。編集がくわわっているにしても、近代化と仏教文化の共存はうまくいっているように見えた。
 「国民総幸福量」はともかくとしても、インテリたちが近代化に焦っていないのは確かなようだ。ブータンが開国したのは先進国の行き詰まりが明らかになってからだから、立ちどまって考える余裕があるのだろう。
 国家シンクタンクにあたるらしいブータン研究所の所長で、欧米や日本に留学経験のあるカルマ・ウラ氏と、ブータン仏教界の重鎮のロポン・ペマラ師に、子供から「どうして人を殺してはいけないのか」と訊かれたら、どう答えるかと質問していたが、二人の受け答えには自信があふれていた。日本のインテリには、この質問に彼らほど自信をもって答えることのできる人がどれだけいるか。
 もっとも、答えの内容は輪廻転生を前提とした仏教的なものだった。日本の子供たちがあの答えで納得するかどうかは別である。
 ブータン仏教にも問題がないわけではない。チベット仏教でいう活仏(高僧の生まれ変わり)をブータンでは化身というが、近年、化身が増えすぎたことが問題になっているという。国が把握しているだけで百人以上いて、化身の増加に歯止めをかけるために化身認定委員会が作られている。
 「ザ・カップ 夢のアンテナ」は化身の高僧が監督したことが話題になったが、出演した少年僧の大部分も化身だった。化身の人気は絶大なので、うちの寺にも化身がほしいと考える人が多いということだろう。

2007年8月15日水曜日

「五木寛之 21世紀・仏教への旅」朝鮮半島編

 「仏教への旅」第2回は「朝鮮半島編」となっているが、仏教の取材で北朝鮮にはいれるはずはなく、もっぱら韓国の話題だった。本は『21世紀 仏教への旅 朝鮮半島編』が刊行されている。
 番組は以下の三つのテーマが柱となっていた。

  • 五木自身のセンチメンタル・ジャーニー
  • 韓国の若者の間に広がる仏教熱
  • 華厳経中心に形成された朝鮮仏教

 朝鮮仏教が華厳経を選んだ理由は前から気になっていた。それは日本仏教がなぜ法華経を選んだのかと問うことでもある。
 番組では「華厳縁起絵巻」で日本でも知られている義湘と善妙の悲恋物語を紹介し、義湘の開いた皇龍寺の祠に残る善妙のあでやかな塑像を映した。華厳経学を大成した学問僧がこんな形で民衆に慕われつづけていたわけである。
 五木は朝鮮民族のネアカな気質が華厳経の前向きの世界観と合っていたと語っていたが、このあたり、よくわからない。
 日本仏教で法華経が重きをなすにいたったのは、最澄が比叡山に天台宗の拠点をつくったことが大きい。華厳教学は奈良の官寺にとどまったが、比叡山で天台を学んだ鎌倉仏教の祖師たちは法華経を出発的に思想をねりあげ、民衆の中へ出ていった。
 もちろん、法華経の思想を発展させた新仏教が日本の民衆に歓迎されたのは、法華経が日本人の心の琴線にふれたからだろう。今でも法華経に関する一般向けの本は膨大な数が出ているし、文学者が仏教にかかわる場合は法華経か親鸞のどちらかである。華厳経をとりあげた文学者というと、石川淳と岡本かの子くらいしか思いつかない。石川の場合、根が朱子学なので、華厳経の世界観と近かったということがある。
 もっとも、禅宗は華厳だという見方があるし、真言密教は華厳と近いともいわれている。日本にも華厳経の世界観ははいっていないわけではないが、法華経と較べると影が薄い。
 華厳経になくて法華経にあるのは排他主義だと思う。法華経は法華経のみを崇めることをもとめており、異端者に対して厳しい。仏教で異端を問題にするのは法華経くらいなもので、その点はキリスト教なみである。吉利支丹に対してもっとも戦闘的だったのは法華宗だった。
 浄土真宗もキリスト教なみに戦闘的だったが、信長に牙を抜かれ、家康に飼いならされてしまった。法華宗も信長にたたきのめされたものの、法華経という牙はたもちつづけ、江戸時代には吉利支丹なみに弾圧された不受不施派を生んだ。明治以降、仏教系新興宗教の母胎となったのは法華経だった。
 韓国の場合、新興宗教の母胎となったのはキリスト教だった。韓国のキリスト教信者の大半は、実際にはキリスト教系新興宗教の信者のようである。
 近代化が進むと、激烈な宗教感情を必要とする人が増えてくる。あてずっぽうだが、激烈な宗教感情をもちたい人は日本では法華経系の新興宗教にはいり、韓国ではキリスト教系新興宗教にはいるということではないか。日本におけるキリスト教の最大のライバルは今も昔も法華経なのかもしれない。

2007年8月14日火曜日

「五木寛之 21世紀・仏教への旅」インド編

 昨年、NHKで一年がかりで放映されたハイビジョン特集「五木寛之 21世紀・仏教への旅」シリーズの再放送がNHK総合ではじまった。
 仏教はインドでおこり、東アジアと東南アジアにひろがり、今、欧米にも影響力をおよぼしつつあるが、その現状を五木がレポートしている。
 全5回のうち、今日は第1回のインド編である。小乗経典の方の涅槃経(『ブッダ最後の旅』)に記された霊鷲山から釈尊終焉の地、クシナガラにいたる道程を五木がたどる。旅の模様は『21世紀 仏教への旅 インド編』として本になっている。DVDはまだ発売されていないが、評判の番組だから出るかもしれない。
 霊鷲山からクシナガラまではおおよそ400kmある。華やかな色の合成繊維の衣類やプラスチック製品がゆきわたっているが、広大なサバンナと照りつける太陽は2500年前と変わっていないだろう。釈尊一行が滞在したマンゴー林を彷彿とさせる果樹園も登場した。五木は冷房つきの自動車で移動したが、炎天下、悪路の旅は体にこたえたようだ。
 釈尊はパーヴァ村の鍛冶工の子チュンダのさしあげたきのこ料理にあたり、それがもとでみまかった。毒きのこがまじったいたのではないかとみられている。
 ヨーロッパではユダヤ人はキリストを処刑した呪われた民族として迫害された。鍛冶工は伝統社会では差別の対象であり、釈尊の毒殺の嫌疑をかけられてもおかしくない状況だった。釈尊はきのこ料理の異変に気づくと、ただちに料理を土中に埋めるように言いつけ、チュンダに責任がおよばぬように最大限の配慮をおこなっている。仏教は四姓平等を標榜する宗教だけに、鍛冶工を釈尊毒殺の張本人として追求するようなことはなかったようである。
 五木は現代のパーヴァ村を訪れ、鍛冶屋を見つける。さすがにチュンダの子孫ではなかったが、鍛冶屋の主人は釈尊が村を訪れたという伝説を伝えていた。仏教はインドでは滅びたが、釈尊はヴィシュヌ神の化身としてヒンズー教のパンテオンにとりいれられたので、伝説が残ったのだろう。
 番組では中村元訳の朗読が挿入されたが、繰りかえしの多い行文は耳で聞くと抵抗なくはいってくる。シリーズの今後を期待させるいい番組だった。

「パルマ派展」

 国立西洋美術館で「パルマ ―イタリア美術、もう一つの都」展を見たが、あまりおもしろくなかった。大きな宗教画が多く、いかにも泰西名画といった絵ばかりだった。美術史的には意義があるのだろうが、好みではなかった。
 むしろ常設展の方がおもしろかった。「パルマ派」展で展示されていたのは15世紀から18世紀にかけての宗教画だったが、その前の時期、中世後期から14世紀にかけての宗教画の小品が最初にならべられていた。保存状態はきわめてよく、テンペラ画のあまりにもあざやかな色彩に驚いた。松方コレクションは奥が深い。
 「パルマ派」展と常設展には聖ベロニカの聖画が何点もあった。聖ベロニカは十字架を担って刑場まで追い立てられたイエスの顔を布で拭ったとされる女性で、布にはイエスの顔が魚拓のように写ったという伝説が残っている。これが「ベロニカの聖帛」で、中世ではもっとも人気のある聖遺物の一つだった。
 聖ベロニカは「聖帛」の縁で洗濯女と亜麻布商人の守護聖人だったが、写真術が発明されると写真師の守護聖人になった。
 キェシロフスキーの「ふたりのベロニカ」のヒロインがベロニカと名づけられたのは聖ベロニカの故事と関係があるのかもしれない。

2007年8月12日日曜日

「とことん押井守」

 先週一週間、NHK BS2の「アニメ・ギガ」で押井守特集をやっていたが、最終日の11日は1時間のティーチインにつづいて、「ビューティフル・ドリーマー」、「アヴァロン」、「イノセンス」を一挙放映するという豪華版だった。今回の特集では各作品の後に押井守氏のインタビューがついたが、さらに11日はティーチインのメンバーが残り、延長戦をつづけていた。
 「イノセンス」はDVDをもっているのでパスしたが、20年ぶりの「ビューティフル・ドリーマー」と未見の「アヴァロン」はおもしろく見た。岡田斗志夫氏はこの3本は映画についての映画だとメタ映画性をしきりに強調していたが、そんなこと関係なしにおもしろい。
 「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」は技術的には一時代前の作品だが、ところどころにすごい場面があるし、作品として抜群におもしろい。
 TV版「うる星やつら」から3話選んで放映した日のインタビューで、押井氏は女性は結婚したら誰かの夫人になってしまうので、本当は結婚したくないのではないか。「うる星やつら」は永遠に結婚を回避したい女性の論理で作られているが、男である自分はそれではモチベーションが生まれないという意味のことを語っていた。学園祭前日が果てしなくくりかえす「ビューティフル・ドリーマー」は「うる星やつら」の構造をテーマにしたメタ「うる星やつら」ということになるだろう。
 それは原作を壊すことにつながる。実際、原作者の高橋留美子氏は「ビューティフル・ドリーマー」を見て、唖然としたと伝えられている。
 ティーチインでは「ビューティフル・ドリーマー」で演出を担当した西村純二氏が裏話を披露してくれたが、一番驚いたのは、あの複雑なストーリーをシナリオなしで作ったという話だ(押井氏の頭の中にはあったのだろうが)。西村氏はA4版2ページのメモをわたされ、あとはその都度、押井氏から口頭で指示を受けただけだったという。
 アニメの場合、スケジュールの関係でシナリオなしで作ることはままあるらしいが、「ビューティフル・ドリーマー」の場合は原作者と小学館のシナリオ・チェックを回避するという計算もあったようだ。もし、事前にシナリオのチェックを受けていたら、現在のような作品にはなっていなかったかもしれない。
 押井氏は完全主義者として知られるが、黒澤明的な独裁者ではなく、現場の裁量にまかせる部分が大きいというのも意外だった。
 「ビューティフル・ドリーマー」にはしのぶが風鈴の屋台を追いかけ、見失って途方にくれるのを、二階の窓から後ろ姿だけで登場する未知の男が見下ろす場面がある。その男が誰かで議論が紛糾したが、西村氏は押井氏からは後ろ姿の男という指示しか受けなかったが、自分の判断で、監督である押井氏が途方にくれるしのぶを見ていると解釈し、押井氏の後ろ姿に似せたということだった。
 西村氏をそれだけ信頼していたということなのだろうが、作品の要になる部分をまかせてしまうというのはすごいことである。
 「アヴァロン Avalon」は実写映画だが、全編ポーランドのロケ、出演者は全員ポーランドの役者、台詞もすべてポーランド語である。
 実写というだけで敬遠していたが、映像はゲームの場面も現実の場面もすべて徹底的にデジタル処理されていて、どことも知れぬ未来空間になっている。モノトーンに近いセピア色の画面は強烈に脳に刻まれ、残像として残る。あの荒廃感を味わうだけでも、この作品は見る価値がある。
 「攻殻機動隊」をパクった「マトリックス」に対抗しようという意図を読むのは勘ぐりすぎだろうか。
 惜しむらくは「マトリックス」ほどのはったりがないこと。映像とヒロインの美しさでは「マトリックス」に勝っているが、世界観では負けている。

2007年8月10日金曜日

「ボルベール〈帰郷〉」

 「オール・アバウト・マイ・マザー」、「トーク・トゥー・ハー」につづくアルモドヴァルの女性賛歌三部作の最後の作品で、男に泣かされた女たちが支えあう話だ。前二作もよかったが、本作は傑作中の傑作である。「オール・アバウト・マイ・マザー」では赤ん坊を産んでエイズで死ぬ修道女を演じたペネロペ・クルスが高校生の娘をもつ母親役で主演している。
 ライムンダ(ペネロペ・クルス)とソレ(ロラ・ドゥエニャス)はマドリードで暮らしているが、三年前に山小屋で焼死した両親の墓参りのためにラマンチャの村によく帰っている。故郷の家には叔母が一人で住んでいるが、ぼけてきていて、ライムンダの母のイレーネがまだ生きていると思いこんでいる。迷信深い村人の中には叔母はイレーネの幽霊と暮らしていると噂する者もいた。
 ライムンダが墓参りから帰ると、夫のパコは会社を解雇され荒れていた。その夜、事件が起こる。パコは娘のパウラ(ヨアナ・コボ)を犯そうとし、パウラは身を守ろうとしてパコを殺してしまったのだ。ライムンダはパニックにおちいったパウラをなだめ、パコは本当の父親ではなかったと告げる。パコは別の男の子供を宿したライムンダと承知の上で結婚していたのだ。
 ライムンダは娘を守るために死体を隠そうとする。叔母の訃報が届くが、死体の始末をつけなければならないので、葬儀はソレ一人にまかせることになる。
 ここからがあっと驚く展開で、アルモドヴァル節全開だ。途中、オカルトかと思わせるが、最後はちゃんと辻褄があう。
 ペネロペ・クルスがすばらしい。ハリウッドではヤクザの情婦のような役ばかりだったが、彼女にはけなげな役があう。

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2007年8月9日木曜日

言論表現委員会で草薙厚子氏問題を討議

 少年事件の調書を生な形で引用した『僕はパパを殺すことに決めた』の出版について、法務省東京法務局は著者の草薙厚子氏と版元の講談社に対し、関係者に謝罪するよう異例の「勧告」をおこなった。ペンクラブ言論表現委員会は言論の自由を脅かす問題と考え、草薙厚子氏と講談社の担当編集者を招き、急遽委員会を開いた。
 強制力のない「勧告」ぐらいでと思う人がいるかもしれないが、「勧告」は重い措置である。人権侵犯事件に対する法務省の措置には「援助」、「調整」、「要請」、「説示」、「勧告」、「通告」、「告発」という七段階がある。「勧告」は三番目に重いが、一番重い「告発」と二番目の「通告」は警察が事件としてあつかうことになるので、法務省で完結する措置としては「勧告」が一番重い。法務省は平成18年度に21,228件の措置をおこなったが、「告発」は1件、「通告」は0件、「勧告」は4件にすぎないのに対し、次の「説示」になると154件と桁が二つちがう。
 「勧告」が東京法務局長から草薙氏に手わたされたのは7月12日だが、翌13日に読売新聞が法務省が「増刷の中止を含めた措置を講ずるよう」勧告したという記事を流すと(「勧告」にはそんな文言はなかったが)、一部の書店が同書を返本し、ラジオ・テレビ番組の出演が一斉にキャンセルになったという。
 『僕はパパを殺すことに決めた』は継母に責任があったかのような初期の報道は誤りとし、少年を犯行にいたらせた本当の原因は父親にあったとする立場で書かれている。少年の父親がプライバシーの侵害や名誉棄損で提訴するのならわかるが、行政機関が表現内容に容喙するようなことをしていいのか疑問である。
 取材や言論の自由の規制につながりかねない法務省の措置に疑問をもつ点では委員諸氏の意見は一致していたが、草薙氏の著作についてはさまざまな意見があった。
 まず、少年事件の供述調書を生な形で引用するという禁じ手を使う必然性があったのかという点。
 ノンフィクションに詳しい委員によると供述調書を資料の一つとして書かれた本は少年事件を含めて珍らしくはなく、中には核心部分で調書の丸写しをしているような本もあったという。そういう本は関係者が読めばすぐにわかるが、特に問題になったことはなかったようである。
 しかし、刑事記録が恐喝の材料にされた事件をきっかけに、開示証拠の管理義務や目的外使用の禁止・罰則が明文化されるなど、この面での規制が強まっている。今回、あからさまに少年事件の供述調書を引用した本が出たことで、取材が困難になるような恐れは多分にある。
 第二に供述調書が決定的な正解であるかのような印象をあたえている点。
 供述調書はあたかも本人が告白したかのように一人称で書かれているが、実際は訊問内容を捜査官が取捨選択し、捜査官の想像で書いたものである。訊問内容をこのように加工するのは日本くらいで、取調のテープ録音やモニター監視を執拗に拒否していることと関係がないわけではないだろう。国際的には日本の供述調書は investigator's essay (捜査官のエッセイ)と呼ばれているそうである。
 ここに引用するわけにいかないので、興味のある方は現物を読んでほしいが、内面描写が多く、完全に小説の文体である。もともと供述調書というものは告白小説もどきだそうだ。捜査官は小説の書き方も勉強しなければならないのだから、御苦労なことである。
 引用は本文より字下げして組むのが普通だが、本書では地の文の方が字下げされており、地の文が引用の註釈のように見える。草薙厚子氏は捜査官の誘導を指摘するなど供述調書が捜査官の作文にすぎないことは承知していると思うが、読者の受けとり方は別だろう。
 草薙氏にはまず「勧告」にいたる一連の経過と法務省による事情聴取の内容を説明いただいたが、担当官は「なぜ地の文に溶けこませなかったのか」といったという。暗黙の引用だったらお目こぼししてやったのにという暗示だろうか。法務省の「勧告」は少年のプライバシーを侵害した点と更生の障害になる点を「被害」としてあげているが、本当の理由は法務省の面子をつぶした点にあったのかもしれない。
 読売新聞の先の記事には「少年の父親から人権侵害の被害の申し立てがあった」と書かれていたが、法務省側からはそんな説明はいっさいなかったという。
 供述調書を生な形で引用した理由については説得力を高めるためという答えだった。少年事件をあつかった過去の著作で、確かな典拠にもとづいて書いたにもかかわらず、想像で書いたのだろうと書評で批判されたことがあり、そうした批判を受けないためには調書の引用が必要ということのようである。
 この点についてはある委員から手厳しい反論があった。供述調書の内面描写は捜査官の想像にすぎず、他人の想像を借りてきて、あたかも真実であるかのように提示するのは物書きとしての責任放棄ではないかというわけだ。
 草薙氏は供述調書の引用は生育歴にかかわる部分に限定したこと、生育歴にかかわる部分の供述調書は信憑性が高いことを強調していたが、事実関係だけなら供述調書の引用は必要ない。事実関係ではなく、内面描写がほしかったので、ああいう使い方をしたととられてもしかたないだろう。
 わたしは草薙氏がアスペルガー原因説を信じているのか気になっていたので、その点を質したが、原因は複合的であってアスペルガーで全部片づくとは考えていないということだった。しかし、あの本の構成だとそうは読めない。調書のあつかいもそうだが、書き方に不用意な点があるのではないか。
 著作の評価はともかく、行政機関が表現内容を規制してくるのは看過できない問題であり、言論表現委員会ではその方向で抗議声明を出すことになった。
 草薙氏は少年鑑別所に法務教官として勤務していた経験があり、その後も少年事件にとりくんできた人なので、本に書けなかった事件の背景や、少年法の問題点について貴重な話を聞けた。
 少年事件はタコ壷的に審理がおこなわれるので、似たような事件でも処分に天と地ほどの開きが出ることがよくあるらしい。判例主義が機能せず、裁判官の恣意にまかされているのだとしたら問題である。
 酒鬼薔薇事件の触法少年が少年院を退院する際、社会の目がどれだけ厳しいかをわからせるために、井垣判事の判断で事件をあつかった新聞記事や雑誌記事、本をすべて読ませたという。
 当然の処置と思うが、なんと、こういうことは酒鬼薔薇少年以外にはまったくおこなわれていないのだそうである。
 今の少年法は触法少年を腫物をさわるようにあつかい、犯罪事実の重さや被害者の思いに直面させないようにしているが、それが更生につながるとは思えない。法務省と人権派弁護士は少年法となるとヤマアラシのようにトゲを逆立てるが、山地悠紀夫の再犯のように、更生の失敗がさらなる悲劇を生んだ事件も現実に起きているのである。

2007年8月8日水曜日

「ブラックブック」

 ポール・バーホーベンがオランダに帰って作ったナチ・ユダヤ人もの。144分の長尺で、二転三転する複雑なストーリーだが、みごとなストーリーテリングで最後まで引きこまれた。第一級のエンターテイメントといえよう。
 主人公のラヘル(カリス・ファン・ハウテン)は裕福なユダヤ人家庭に生まれ、大戦前は歌手をやっていたが、ナチがオランダに侵攻してくると、かねて話をつけてあった農家に匿ってもらう。ドイツの敗色が濃くなった頃、連合軍の爆撃機が捨てていった爆弾で農家がふきとんでしまう。
 住家を失った彼女は農家の青年に匿ってもらうが、レジスタンスの一員らしい男に家の焼跡から彼女の身分証明書が見つかり、警察が行方を探していると警告される。彼女は男に勧められるまま、米軍占領地域に逃れるグループにくわわることにする。公証人から全財産を受けとり、待ちあわせ場所にゆくと、別の場所に隠れていた父母と兄もいた。
 ユダヤ人たちは艀に乗せられ、夜陰に乗じて川をくだっていくが、ドイツ軍の待伏せにあい、皆殺しにされる。川に飛びこんでただ一人生き残ったラヘルはドイツ兵が死体から財産を奪っていくのを目撃する。
 天涯孤独となった彼女はレジスタンスの一員となり、エリスと名前を変え、波瀾万丈の活躍をはじめるが、レジスタンスが決して一枚岩でないのがおもしろい。愛国者グループはオランダ女王に忠誠を誓うが、共産主義者はその場面になるとそっぽを向いてしまう。ユダヤ人に対しても微妙な距離があり、心の底では信用していない。
 レジスタンスの企てた作戦が内通者によって失敗し、多くの犠牲が出るが、エリスは内通者に仕立てられ、ドイツ軍降伏後も追われる立場になる。最後の最後に本当の内通者が明らかになるが、それは意外な人物だった。
 エンターテイメントには違いないが、オランダの庶民の間に根強く存在するユダヤ人嫌いの感情をはしばしで描いている。こういう映画はハリウッドでは作れないだろう。

2007年8月7日火曜日

光市母子殺害事件の精神鑑定

 週刊ポスト8月17日・24日合併号に「精神鑑定医があえて明かした360分問答 父の暴行、求められた母子相姦」として、弁護側鑑定人として法廷に立った野田正彰氏を取材した記事が掲載されている。6ページという分量は週刊誌の記事としてはかなり長い。
 360分というのは野田正彰氏がF被告と面接した延べ時間で、1月29日、2月8日、5月16日の3回、広島拘置所の面会室でアクリル板をはさんで弁護人立ち会いのもとに面接している。F被告の父親、母方の祖母、叔母、友人とも会ったという。
 これだけ読むと周到な鑑定に見えるが、週刊文春8月9日号の「「来世で一緒になる」ランニング姿の光市母子殺人犯」という青沼陽一郎氏の署名記事では野田鑑定に対して疑問符をつけている。


 さらにこの鑑定人、「鑑定は無理矢理やらされた」「麻原(彰晃)の鑑定をやったついでに頼むと言われた」と言ったり、証拠にも提出されている被告人が友人に宛てた手紙については、「二十分程読んだ。全部は読めない」と言ってのけた。様々な刑事裁判を取材傍聴してきたが、こんな不遜な鑑定人ははじめて見た。

 こんな態度を証言台でとっていたのだとしたら、判決への影響はあまり大きくないかもしれない。しかし、野田正彰氏の証言にはこれまで出ていない情報がふくまれているのも事実だ。。
 野田正彰氏はF被告の母親が結婚直後から父親にDVを受けており、F被告も父親の暴力にさらされていた事実に注目する。父親の暴力におびえる母親とF被告は「ともに被害者同士として、共生関係」をもつようになった。F被告が小学校高学年になると「2人の繋がりは親子の境界をあいまいにする、母子相姦的な会話も交されるように」なったという。記事から引くが、文中の「A」とはF被告のことである。

 母親から「将来は結婚して一緒に暮らそう。お前に似た子供ができるといいね」と言葉をかけられたことがあったといいます。……中略……
 Aは私との面談で、母親のことをしばしば妻や恋人であるかのように、下の名前で呼んでいました。それほど母親への愛着は深く、母親が父親の寝室に呼ばれて夜を過ごすと、「狂いそうになるほど辛かった」とも話しています。

 野田正彰氏はF被告の幼さをしきりに強調しているが、両親の夜の営みに嫉妬する小学生は「ませている」というべきだろう。F被告は母親の誘惑によって思春期早期から性愛に目覚めさせられてしまったようだ。おそらくF被告は実母と性交渉をもつ空想にふけっていただろう。
 F被告が死刑になって、あの世で被害者の弥生さんに再会したら「自分が弥生さんの夫になる可能性がある」と語ったことを野田氏はあきらかにしたが、それは凌辱行為が母子相姦願望の実現にほかならなかったことを意味する。強姦犯人は赤ん坊をつれた母親を狙わないといわれているが、F被告が母子相姦願望にとりつかれていたとすれば、この選択は不自然ではない。
 弁護側は寂しかったとか、母親をもとめるように抱きついたとか、性欲隠しに懸命だが、野田正彰氏の指摘する母子相姦願望説が事実なら行為の意味は一変する。
 そして、F被告の場合、単なる母子相姦願望ではない。
 F被告は野田正彰氏の前で、もとめられてもいないのに母親の自殺現場を絵に描きだしたという。F被告は首をくくって死んだ母親の失禁して汚れた死体を父親の命令で清めている。F被告はその時の臭いを憶えていると語ったそうだが、異臭を嗅いだだけでなく、母親の苦悶の表情を間近に見、汚れた局部に触れていたはずである。
 F被告の母子相姦願望は窒息死体との交合という妄想に発展していた可能性がある。「ファンタジーの世界」という言葉に惑わされてはならない。実際は「性的ファンタジー」であり、おそらくは倒錯した性的妄想世界だったはずだからだ。
 野田正彰氏は次のようにF被告の行動を弁護する。

 犯行当日、Aはなんとなく友人の家に遊びに行って過ごし、友人が用事があるというので、たまたま家に帰った。そして、何となく時間を潰すために近くのアパートで無作為にピンポンを押していった。そこに、綿密な計画性は認められない。

 しかし、家にもどったF被告は勤務先の水道会社の作業着にわざわざ着替え、ガムテープやカッターナイフをもって出ている。ピンポンダッシュやロールプレイング・ゲームに、なぜガムテープやカッターナイフが必要なのか。犯行の準備と見た方が妥当ではないか。
 さて、核心部分である。F被告は被害者を扼殺した後、死体を凌辱する。

 殺害後、ペニスを挿入したことについては、母親との思い出がフラッシュバックしたと考えられます。理由は首を絞められた弥生さんが失禁したこと。その異臭で母親の自殺の光景が蘇った。そこで母親と一体になろうとした思いに戻っていったのかもしれません。

 絞め殺された人間は舌を突きだしたものすごい形相になり、失禁や脱糞をすることが多いという。弥生さんも失禁と脱糞をしていたとされている。表情も断末魔の表情だったろう。
 普通の強姦犯人だったら、そんな状態の死体を見たら性欲など消え失せ、逃げだすところだが、F被告は死体の汚れた局部を清めた上で、勃起したペニスを挿入し、射精までしている。
 弥生さんに自殺した母親を見ていたという野田正彰氏の解釈が正しいとしたら、「母親と一体になろうとした思い」とは窒息死体と交わるという願望以外のなにものでもないことになる。
 死姦は死者を蘇らせるための儀式だとか、夕夏ちゃんの死体を天袋に隠したのはドラえもんが何とかしてくれると思ったというF被告の主張については、野田氏も「当時、本当にそう考えていたかには疑問も残り、後付けの可能性もあります」と疑問を呈している。凌辱が再生の儀式ではないとしたら、何なのか。母子相姦妄想、さらには死姦妄想の現実化と見るしかないだろう。
 野田氏も弁護団同様、F被告の幼さをしきりに強調するが、母親の死の時点で精神的発達が止まっていたのだとしたら12歳である。しかも、ただの12歳ではない。母親の誘惑で性愛に目覚めた12歳、母親が父親の寝室に呼ばれた夜、「狂いそうになるほど辛かった」と告白する12歳である。彼は寂しかったのではなく、最初から窒息死体を凌辱したかったのかもしれないのである。
 野田氏は精神科医なのだから、幼いから無垢だなどといえないことは百も承知のはずだ。F被告が母子相姦の妄想世界に生きているところまで認めておいて、なぜ弁護団の性欲隠しに加担しようとするのか。野田氏の学者としての良心に疑問を持つ。

2007年8月5日日曜日

『僕はパパを殺すことに決めた』

 草薙厚子『僕はパパを殺すことに決めた』を読んだ。
 本書は2006年6月20日に起きた「奈良エリート少年自宅放火事件」を取材した本だが、供述調書を生な形で引用したために法務省の東京法務局長が異例の謝罪勧告を出している。
 一年前とはいえ、少年による残虐な事件がつづいているので、どんな事件か忘れている方もすくなくないだろう(わたしも忘れていた)。まず、あらましを要約しておく。
 事件を起こした少年は奈良の進学校に通う高校二年生(当時)。実母は離婚しており、当時は父親と後妻、後妻の産んだ弟妹の五人暮らしだった。父親も義母もともに医師で、少年も父親から医師になることを強く期待されていた。
 事件の日、父親は当直で不在だったが、少年は一階にサラダ油を二瓶撒いて火をつけてから家出する。家はたちまち炎上し、二階に寝ていた義理の母と弟妹が焼死している。
 少年はわずか三千円の所持金で京都に逃げ、野宿をして一日すごすが、翌日の深夜、空腹から民家にはいりこみ勝手に飲食。朝になって家人に見つかり逃走、近くで保護された。
 父親の不在中に義母と弟妹を焼死させたこと、義母の顔に打撲痕があったことから、当初、義母に対する怨みによる犯行という憶測が広まった。
 しかし、打撲痕は死後、家の倒壊でできたものだったし、少年は義母の関係はよかったという証言があいつぐ。少年は義母の実家をたびたび訪れ、義母の両親を実の祖父母のように慕っていたが明らかになっている。
 なぜ少年は犯行を犯したのか。
 本書は少年の生育の過程を少年と父親の供述調書を引用してたどっているが、父親はにわかには信じられないような暴力を幼児期から少年に対して継続的にくわえていた。父親的には息子を医者にするための愛の鞭だが、第三者的には教育熱心の域を越えており、強迫的というか、ほとんどマンガであって、正常な人間のやることとは思えない。
 父方、母方両方とも医師と薬剤師の一族で、実母と父方の祖母も薬剤師だそうである。父親はその中で二流の私大卒で、金の力で医者になったというコンプレックスがあったと、実母が語っている。しかし、そうした事情をさしひいても、この父親のやっていたことは尋常ではない。
 少年の供述だけだったら信じられないようなことが書かれているが、担任教師と父方の祖母は少年が暴力を受けていることを知っていた。父親も体罰で怪我をさせたことがることを認めている(本人は異常性に気づいていない)。少年が異様な父子関係のもとで育ち、父親に対して激しい恐怖と憎悪をいだいていたことは事実と考えていいだろう。ごく簡単な記述だが、父親自身虐待されて育ったことが父方の祖母の供述からうかがえる。虐待の連鎖があったらしい。
 しかし、犯行は父親の不在中に決行された。父親に対する恐怖と憎悪が動機だとしたら矛盾していまいか。
 この疑問に精神鑑定人は「広範性発達障害」(アスペルガー症候群)というい答えを出している。家裁はこの鑑定を支持し少年の処遇を決めた。著者である草薙氏厚子も思わせぶりな謎でひっぱった後、最後に「広範性発達障害」を水戸黄門の印籠のように持ちだしている。
 「広範性発達障害」で片づくのだとしたら、一家族のプライバシーをここまで暴く必要があったかどうか疑問である。
 だが、「広範性発達障害」という診断で、この事件は解決したのだろうか。
 わたしが調書から感じたのはシュレーバー症例との類似性である。調書はあくまで調査官の作文であり、内面描写の部分は調査官の想像でしかない。本書に引用された供述も小説的にきれいに整理されており、ピエール・リヴィエールの手記とは似て非なるものだ。しかし、そうはいっても、供述調書には「広範性発達障害」で片づけようという調査官の思惑をこえた部分がそこかしこにのぞいている。
 少年はシュレーバーのような妄想世界に住んでいたわけではないらしいし、分裂病の徴候があったわけでもないようだが、彼の生育歴は『魂の殺害者』に描かれたシュレーバーの生育歴と二重写しになって見えた。
 本書は「広範性発達障害」という家裁決定を支持する立場で書かれているが、供述調書の引用ははからずも「広範性発達障害」では説明できない現実をあぶりだしたと思う。

2007年8月2日木曜日

「ホリデイ」

 失恋したロンドンの女性記者アイリス(ケイト・ウィンスレット)と、夫を追いだしたばかりのハリウッドの予告編製作会社社長アマンダ(キャメロン・ディアス)という傷心の二人が「ホーム・エクスチェンジ」で自宅を交換し、クリスマス休暇をすごすというコメディ。
 これも第一級のエンターテイメントで、最初はだるかったが、尻上がりにおもしろくなっていく。最後は予定調和的な見え見えのハッピーエンドだったが、それにも係わらず感動した。
 ケイト・ウィンスレットが抜群によく、ロス編を一人で引っぱっていく。ロンドン編ではジュード・ロウが牽引役で、大根のキャメロン・ディアスまでよくなっていく。英国の俳優の底力だ。ジャック・ブラックは添物だが、老脚本家を演じたイーライ・ウォラックがいい味を出している。

「ドリーム・ガールズ」

 黒人女性コーラス・グループの成功と挫折を描いたブロードウェイ・ミュージカルの映画化である。たいへんドラマチックな話だが、モデルとなったのはダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスとモータウン・レコードで、大筋はこの通りというから驚く。
 ダイアナ・ロスもザ・シュープリームスもモータウン・レコードも知らなかったが、そんなことには関係なく物語に引きこまれた。そして音楽がすばらしい。ビヨンセ演じるディーナ(モデルはダイアナ・ロス)の洗練されたパフォーマンスもいいが、抜群の実力をもちながら、音楽業界から去っていくエフィを演じたジェニファー・ハドソンの迫力の歌唱に圧倒された。これこそ第一級のエンターテイメントである。

2007年8月1日水曜日

従軍慰安婦問題とマルクス・ゾンビ

 7月30日、アメリカ下院本会議でいわゆる従軍慰安婦に関する「対日謝罪要求決議案」が可決された。
 この問題は池田信夫氏が簡潔に指摘しているように朝日新聞の誤報にはじまる「存在しない問題」であって、河野洋平官房長官(当時)がその場しのぎの対応をしたために、「存在しない問題」が一人歩きするようになってしまった。マイク・ホンダ議員は従軍慰安婦の根拠を問われると河野談話を持ちだしており、日本流のその場しのぎの対応が国際的にどんな禍根を残すかという実例になった。
 河野氏の責任は重大だが、当時の雰囲気を知る者としては左翼団体が組織防衛のために利用していたことを指摘しておきたい。
 朝日新聞の誤報が出た1992年はベルリンの壁崩壊の2年半後のことであり、左翼団体が一番意気消沈していた時期だった。モスクワの秘密文書館の封印が解かれ、隠されていたおぞましい事実が次から次へと出てきた。加藤昭氏らの努力によって日本の共産主義運動の暗部も暴かれていった。日本共産党の象徴だった野坂参三氏が二重スパイだったことが判明し、除名されたのは1992年の末だった。あの頃は日本共産党だけではなく、左翼全体が出口なしの状況におちいっていた。「シャミン」(社会民主主義)が侮蔑語だったことからもわかるように、日本の左翼はマルクス主義一辺倒だったために、マルクス主義がこけると左翼全体がこけてしまったのだ。
 ベルリンの壁崩壊以前からマルクス主義者は未来を語れなくなっていたが、モスクワの秘密文書館が解放されたために、過去も語れなくなってしまった。
 その中で飛びだしたのが朝日新聞の誤報であり、それを機に左翼団体は息を吹きかえし、従軍慰安婦問題をおしたてて運動を再組織した。
 これはマルクス信仰を失ったマルクス主義者に特有の反応パターンだ。
 北朝鮮は日本人拉致という犯罪行為を相殺するために、脱北した日本人妻を呼びもどし、日本が北朝鮮公民を拉致したとしてプロパガンダに利用した。中国は中国製品の欠陥を外国から指摘されると、その国から輸入している製品に難癖をつけ、輸入禁止にするという対抗措置をくりかえしている。彼らはもうマルクス主義を信じていないので、相手の真似をするしか方法がないのである。
 従軍慰安婦問題や強制連行問題では日本の左翼団体は学問的にとっくに否定されている材料に固着しているが、彼らはマルクス・ゾンビであり、組織防衛のためにはそうするしかないのだということを理解しておく必要がある。