2007年8月9日木曜日

言論表現委員会で草薙厚子氏問題を討議

 少年事件の調書を生な形で引用した『僕はパパを殺すことに決めた』の出版について、法務省東京法務局は著者の草薙厚子氏と版元の講談社に対し、関係者に謝罪するよう異例の「勧告」をおこなった。ペンクラブ言論表現委員会は言論の自由を脅かす問題と考え、草薙厚子氏と講談社の担当編集者を招き、急遽委員会を開いた。
 強制力のない「勧告」ぐらいでと思う人がいるかもしれないが、「勧告」は重い措置である。人権侵犯事件に対する法務省の措置には「援助」、「調整」、「要請」、「説示」、「勧告」、「通告」、「告発」という七段階がある。「勧告」は三番目に重いが、一番重い「告発」と二番目の「通告」は警察が事件としてあつかうことになるので、法務省で完結する措置としては「勧告」が一番重い。法務省は平成18年度に21,228件の措置をおこなったが、「告発」は1件、「通告」は0件、「勧告」は4件にすぎないのに対し、次の「説示」になると154件と桁が二つちがう。
 「勧告」が東京法務局長から草薙氏に手わたされたのは7月12日だが、翌13日に読売新聞が法務省が「増刷の中止を含めた措置を講ずるよう」勧告したという記事を流すと(「勧告」にはそんな文言はなかったが)、一部の書店が同書を返本し、ラジオ・テレビ番組の出演が一斉にキャンセルになったという。
 『僕はパパを殺すことに決めた』は継母に責任があったかのような初期の報道は誤りとし、少年を犯行にいたらせた本当の原因は父親にあったとする立場で書かれている。少年の父親がプライバシーの侵害や名誉棄損で提訴するのならわかるが、行政機関が表現内容に容喙するようなことをしていいのか疑問である。
 取材や言論の自由の規制につながりかねない法務省の措置に疑問をもつ点では委員諸氏の意見は一致していたが、草薙氏の著作についてはさまざまな意見があった。
 まず、少年事件の供述調書を生な形で引用するという禁じ手を使う必然性があったのかという点。
 ノンフィクションに詳しい委員によると供述調書を資料の一つとして書かれた本は少年事件を含めて珍らしくはなく、中には核心部分で調書の丸写しをしているような本もあったという。そういう本は関係者が読めばすぐにわかるが、特に問題になったことはなかったようである。
 しかし、刑事記録が恐喝の材料にされた事件をきっかけに、開示証拠の管理義務や目的外使用の禁止・罰則が明文化されるなど、この面での規制が強まっている。今回、あからさまに少年事件の供述調書を引用した本が出たことで、取材が困難になるような恐れは多分にある。
 第二に供述調書が決定的な正解であるかのような印象をあたえている点。
 供述調書はあたかも本人が告白したかのように一人称で書かれているが、実際は訊問内容を捜査官が取捨選択し、捜査官の想像で書いたものである。訊問内容をこのように加工するのは日本くらいで、取調のテープ録音やモニター監視を執拗に拒否していることと関係がないわけではないだろう。国際的には日本の供述調書は investigator's essay (捜査官のエッセイ)と呼ばれているそうである。
 ここに引用するわけにいかないので、興味のある方は現物を読んでほしいが、内面描写が多く、完全に小説の文体である。もともと供述調書というものは告白小説もどきだそうだ。捜査官は小説の書き方も勉強しなければならないのだから、御苦労なことである。
 引用は本文より字下げして組むのが普通だが、本書では地の文の方が字下げされており、地の文が引用の註釈のように見える。草薙厚子氏は捜査官の誘導を指摘するなど供述調書が捜査官の作文にすぎないことは承知していると思うが、読者の受けとり方は別だろう。
 草薙氏にはまず「勧告」にいたる一連の経過と法務省による事情聴取の内容を説明いただいたが、担当官は「なぜ地の文に溶けこませなかったのか」といったという。暗黙の引用だったらお目こぼししてやったのにという暗示だろうか。法務省の「勧告」は少年のプライバシーを侵害した点と更生の障害になる点を「被害」としてあげているが、本当の理由は法務省の面子をつぶした点にあったのかもしれない。
 読売新聞の先の記事には「少年の父親から人権侵害の被害の申し立てがあった」と書かれていたが、法務省側からはそんな説明はいっさいなかったという。
 供述調書を生な形で引用した理由については説得力を高めるためという答えだった。少年事件をあつかった過去の著作で、確かな典拠にもとづいて書いたにもかかわらず、想像で書いたのだろうと書評で批判されたことがあり、そうした批判を受けないためには調書の引用が必要ということのようである。
 この点についてはある委員から手厳しい反論があった。供述調書の内面描写は捜査官の想像にすぎず、他人の想像を借りてきて、あたかも真実であるかのように提示するのは物書きとしての責任放棄ではないかというわけだ。
 草薙氏は供述調書の引用は生育歴にかかわる部分に限定したこと、生育歴にかかわる部分の供述調書は信憑性が高いことを強調していたが、事実関係だけなら供述調書の引用は必要ない。事実関係ではなく、内面描写がほしかったので、ああいう使い方をしたととられてもしかたないだろう。
 わたしは草薙氏がアスペルガー原因説を信じているのか気になっていたので、その点を質したが、原因は複合的であってアスペルガーで全部片づくとは考えていないということだった。しかし、あの本の構成だとそうは読めない。調書のあつかいもそうだが、書き方に不用意な点があるのではないか。
 著作の評価はともかく、行政機関が表現内容を規制してくるのは看過できない問題であり、言論表現委員会ではその方向で抗議声明を出すことになった。
 草薙氏は少年鑑別所に法務教官として勤務していた経験があり、その後も少年事件にとりくんできた人なので、本に書けなかった事件の背景や、少年法の問題点について貴重な話を聞けた。
 少年事件はタコ壷的に審理がおこなわれるので、似たような事件でも処分に天と地ほどの開きが出ることがよくあるらしい。判例主義が機能せず、裁判官の恣意にまかされているのだとしたら問題である。
 酒鬼薔薇事件の触法少年が少年院を退院する際、社会の目がどれだけ厳しいかをわからせるために、井垣判事の判断で事件をあつかった新聞記事や雑誌記事、本をすべて読ませたという。
 当然の処置と思うが、なんと、こういうことは酒鬼薔薇少年以外にはまったくおこなわれていないのだそうである。
 今の少年法は触法少年を腫物をさわるようにあつかい、犯罪事実の重さや被害者の思いに直面させないようにしているが、それが更生につながるとは思えない。法務省と人権派弁護士は少年法となるとヤマアラシのようにトゲを逆立てるが、山地悠紀夫の再犯のように、更生の失敗がさらなる悲劇を生んだ事件も現実に起きているのである。