光市母子殺害事件の精神鑑定
週刊ポスト8月17日・24日合併号に「精神鑑定医があえて明かした360分問答 父の暴行、求められた母子相姦」として、弁護側鑑定人として法廷に立った野田正彰氏を取材した記事が掲載されている。6ページという分量は週刊誌の記事としてはかなり長い。
360分というのは野田正彰氏がF被告と面接した延べ時間で、1月29日、2月8日、5月16日の3回、広島拘置所の面会室でアクリル板をはさんで弁護人立ち会いのもとに面接している。F被告の父親、母方の祖母、叔母、友人とも会ったという。
これだけ読むと周到な鑑定に見えるが、週刊文春8月9日号の「「来世で一緒になる」ランニング姿の光市母子殺人犯」という青沼陽一郎氏の署名記事では野田鑑定に対して疑問符をつけている。
さらにこの鑑定人、「鑑定は無理矢理やらされた」「麻原(彰晃)の鑑定をやったついでに頼むと言われた」と言ったり、証拠にも提出されている被告人が友人に宛てた手紙については、「二十分程読んだ。全部は読めない」と言ってのけた。様々な刑事裁判を取材傍聴してきたが、こんな不遜な鑑定人ははじめて見た。
こんな態度を証言台でとっていたのだとしたら、判決への影響はあまり大きくないかもしれない。しかし、野田正彰氏の証言にはこれまで出ていない情報がふくまれているのも事実だ。。
野田正彰氏はF被告の母親が結婚直後から父親にDVを受けており、F被告も父親の暴力にさらされていた事実に注目する。父親の暴力におびえる母親とF被告は「ともに被害者同士として、共生関係」をもつようになった。F被告が小学校高学年になると「2人の繋がりは親子の境界をあいまいにする、母子相姦的な会話も交されるように」なったという。記事から引くが、文中の「A」とはF被告のことである。
母親から「将来は結婚して一緒に暮らそう。お前に似た子供ができるといいね」と言葉をかけられたことがあったといいます。……中略……
Aは私との面談で、母親のことをしばしば妻や恋人であるかのように、下の名前で呼んでいました。それほど母親への愛着は深く、母親が父親の寝室に呼ばれて夜を過ごすと、「狂いそうになるほど辛かった」とも話しています。
野田正彰氏はF被告の幼さをしきりに強調しているが、両親の夜の営みに嫉妬する小学生は「ませている」というべきだろう。F被告は母親の誘惑によって思春期早期から性愛に目覚めさせられてしまったようだ。おそらくF被告は実母と性交渉をもつ空想にふけっていただろう。
F被告が死刑になって、あの世で被害者の弥生さんに再会したら「自分が弥生さんの夫になる可能性がある」と語ったことを野田氏はあきらかにしたが、それは凌辱行為が母子相姦願望の実現にほかならなかったことを意味する。強姦犯人は赤ん坊をつれた母親を狙わないといわれているが、F被告が母子相姦願望にとりつかれていたとすれば、この選択は不自然ではない。
弁護側は寂しかったとか、母親をもとめるように抱きついたとか、性欲隠しに懸命だが、野田正彰氏の指摘する母子相姦願望説が事実なら行為の意味は一変する。
そして、F被告の場合、単なる母子相姦願望ではない。
F被告は野田正彰氏の前で、もとめられてもいないのに母親の自殺現場を絵に描きだしたという。F被告は首をくくって死んだ母親の失禁して汚れた死体を父親の命令で清めている。F被告はその時の臭いを憶えていると語ったそうだが、異臭を嗅いだだけでなく、母親の苦悶の表情を間近に見、汚れた局部に触れていたはずである。
F被告の母子相姦願望は窒息死体との交合という妄想に発展していた可能性がある。「ファンタジーの世界」という言葉に惑わされてはならない。実際は「性的ファンタジー」であり、おそらくは倒錯した性的妄想世界だったはずだからだ。
野田正彰氏は次のようにF被告の行動を弁護する。
犯行当日、Aはなんとなく友人の家に遊びに行って過ごし、友人が用事があるというので、たまたま家に帰った。そして、何となく時間を潰すために近くのアパートで無作為にピンポンを押していった。そこに、綿密な計画性は認められない。
しかし、家にもどったF被告は勤務先の水道会社の作業着にわざわざ着替え、ガムテープやカッターナイフをもって出ている。ピンポンダッシュやロールプレイング・ゲームに、なぜガムテープやカッターナイフが必要なのか。犯行の準備と見た方が妥当ではないか。
さて、核心部分である。F被告は被害者を扼殺した後、死体を凌辱する。
殺害後、ペニスを挿入したことについては、母親との思い出がフラッシュバックしたと考えられます。理由は首を絞められた弥生さんが失禁したこと。その異臭で母親の自殺の光景が蘇った。そこで母親と一体になろうとした思いに戻っていったのかもしれません。
絞め殺された人間は舌を突きだしたものすごい形相になり、失禁や脱糞をすることが多いという。弥生さんも失禁と脱糞をしていたとされている。表情も断末魔の表情だったろう。
普通の強姦犯人だったら、そんな状態の死体を見たら性欲など消え失せ、逃げだすところだが、F被告は死体の汚れた局部を清めた上で、勃起したペニスを挿入し、射精までしている。
弥生さんに自殺した母親を見ていたという野田正彰氏の解釈が正しいとしたら、「母親と一体になろうとした思い」とは窒息死体と交わるという願望以外のなにものでもないことになる。
死姦は死者を蘇らせるための儀式だとか、夕夏ちゃんの死体を天袋に隠したのはドラえもんが何とかしてくれると思ったというF被告の主張については、野田氏も「当時、本当にそう考えていたかには疑問も残り、後付けの可能性もあります」と疑問を呈している。凌辱が再生の儀式ではないとしたら、何なのか。母子相姦妄想、さらには死姦妄想の現実化と見るしかないだろう。
野田氏も弁護団同様、F被告の幼さをしきりに強調するが、母親の死の時点で精神的発達が止まっていたのだとしたら12歳である。しかも、ただの12歳ではない。母親の誘惑で性愛に目覚めた12歳、母親が父親の寝室に呼ばれた夜、「狂いそうになるほど辛かった」と告白する12歳である。彼は寂しかったのではなく、最初から窒息死体を凌辱したかったのかもしれないのである。
野田氏は精神科医なのだから、幼いから無垢だなどといえないことは百も承知のはずだ。F被告が母子相姦の妄想世界に生きているところまで認めておいて、なぜ弁護団の性欲隠しに加担しようとするのか。野田氏の学者としての良心に疑問を持つ。