「エレンディラ」
マルケスの同題の短編集を坂手洋二が脚本化。演出は蜷川幸雄。
グェッラ監督の映画は短編「エレンディラ」だけを脚色したが、この芝居は「大きな翼のある、ひどく年取った男」、「奇跡の行商人、善人のブラカマン」、「愛の彼方の変わることなき死」など、短編集の他の作品をとりこんで世界を広げている。一冊の短編集をまるごと脚本化したに等しく、上演時間は四時間になんなんとする。
印象的な場面がたくさんある。
まず、エレンディラの登場シーン。カーニバルの熱狂の中、狂言回しのインディオの夫婦が口上でエレンディラの美しさをことほぎ、期待をいやがうえにも高めた後、舞台の一番奥からエレンディラがしずしずとあらわれる。その後ろにお婆ちゃん(嵯川哲郎)のはいった浴槽がつづき、広場はお婆ちゃんのお屋敷に一変するのだが、さいたま芸術劇場の大ホールは舞台の奥行がおそろしく深く、エレンディラは歩いても歩いてもなかなか近づいてこない。観客の目は釘づけになる。こういう演出は都心の劇場では無理だ。
映画はクラウディア・オハナの美少女ぶりが評判になったが、美波も美少女である。初舞台が四時間出ずっぱりの主役、しかもヌードありとはエレンディラの運命なみに過酷だ。
映画ではイレーネ・パパスがやったお婆ちゃんは嵯川哲郎が肉襦袢を着こんで演じた。入浴場面などで裸になるが、作り物とはいえ、ぶくぶく太ったグロテスクなヌードはど迫力。
火事の後では本水で雨を降らせ、度肝を抜いたが、何度もくりかえすのはいただけない。
舞台を大きく円を描いて進む砂漠の行進は見ものだ。長い柄につけたコウモリ傘をかざしたエレンディラを先頭に、輿に乗ったお婆ちゃんと、黒いトランクに手足の生えた父と祖父の死体、美術品をかついだインディオの行列がつづき、最後に写真屋が自転車を押して歩く。なんともシュールな光景。
一幕の最後のエレンディラとウリセス(中川晃教)が結ばれる条はこの芝居で最も美しい場面である。客をとりすぎて下腹部が棒で殴られたように痛みだしたエレンディラは急遽休むことになる。行列を作っていた客は帰されるが、翌朝には出発しなければならないウリセスはあきらめきれず、エレンディラのテントの周りを徘徊する。二人は出会い、エレンディラはウリセスを受けいれ、はじめて歓びを知る。原作では一頁足らずの短いエピソードだが、坂手と蜷川はここを無垢な恋人たちの哀切で叙情的な山場に変えた。
二幕ではエレンディラは修道院に監禁されるが、お婆ちゃんの策略で偽装結婚させられ、再び娼婦生活にもどる。お婆ちゃんは修道院事件に懲りて上院議員に接近し、商売はいよいよ繁盛する。
一方、家にもどったウリセスはエレンディラが忘れられず、ダイヤのはいったオレンジを盗んで家出する。ウリセスはエレンディラと再会し、駆落するが、上院議員と結託したお婆ちゃんは警察を使い、二人をすぐに捕まえてしまう。エレンディラは娼婦稼業にもどされる。
エレンディラのテントには男たちが長蛇の列を作り、他の娼婦の妬みを買ってしまう。娼婦たちはエレンディラをベッドごと拉致し、通りでさらし者にする。ベッドに鎖でつながれた全裸のエレンディラの怯えた姿が痛々しい。
三幕ではエレンディラはお婆ちゃんの言い訳を聞いてはじめて洗脳が解け、お婆ちゃんを殺そうと思うが、自分では実行できない。ウリセスが実行役となるが、怪物的なお婆ちゃんはなまなかなことでは死なない。エレンディラは満足に人も殺せないのとウリセスをなじるが、彼女はもはや無垢な少女ではなくなっている。
ウリセスはやっとお婆ちゃんを殺すが、エレンディラは金の延棒を縫いこんだチョッキを着こんで一人で逃げてしまい、ウリセスは殺人犯として捕らえられる。『ロリータ』のような無残な結末である。
原作はここで終わるが、芝居は短編集の他の作品のエピソードを取りこんで、殺人を犯してなお無垢なウリエセスのその後の運命を語り、さらには「タンゴ、冬の終わりに」のようなマルケス的とは言いかねる結末をつけた。原作の結末が芝居向きでないのは確かだが、この終わり方は苦し紛れのような印象を受けた。
記憶に残るすばらしい場面がいくつもあるし、エレンディラの美波、ウリセスの中川ともに好演だが、四時間は長すぎた。インディオの夫婦がつとめていた狂言回しが三幕にいたって、急にマルケス本人を思わせる作家(國村準)に変わるのも解せない。最初から作家を狂言回しにしていた方がわかりやすかったろう。
混沌が命の芝居であるが、もうちょっと整理した方がよかった思う。