2007年10月20日土曜日

王の角度

 「日立世界ふしぎ発見」の「パリ エジプト化計画」はおもしろかった。フランス第二帝政期のエジプト・ブームがテーマで、お約束のフリーメイソンの話も出てきたが、パリの歴史軸とルクソール神殿の中心軸がどちらも途中でずれているという指摘が興味深かった。
 これまでは自然条件が原因で曲げたということで片づけられてきたが、どちらもずれも6度で平面図を重ねるとぴたりと一致する。
 6度という半端な角度が偶然に一致したとは考えにくい。オスマンがパリ改造の青写真を引いたのはルクソール神殿が『エジプト誌』で詳しく紹介された後だから、ルクソールに倣おうとした可能性はあながち否定できないだろう。
 では、なぜルクソール神殿の中心軸は6度ずれているのか。ナイル河の屈曲にあわせたということになっているが、本当にそうなのか。
 ここで「王の角度」という吉村作治氏の仮説が登場する。ファラオは夫々自分の角度をもっていたというのである。
 吉村氏は「王の角度」の例として屈折ピラミッドをあげている(遊学舎の「エジプト博物館」)。屈折ピラミッドは従来は建造技術が未熟だったために、急勾配では崩れる恐れがあったので途中から勾配をゆるくしたと説明されていたが、吉村氏は施主であるファラオが変わったので、勾配の角度が変わったとしている。
 屈折ピラミッドは勾配が変わっているだけでなく、入口と玄室が二組ある特異なピラミッドであることを考えると、「王の角度」という説は説得力をもってくる。
 ルクソール神殿は第18王朝のアメンヘテプ三世と第19王朝のラムセス二世が大半を作ったが、中心軸のずれはアメンヘテプ三世建築部分とラムセス二世建築部分の境目で生まれていた。しかも、アメンヘテプ三世とラムセス二世の陵墓の中心軸を調べたところ、6度ずれていたのである。「王の角度」という説がどこまで認知されているのかはわからないが、実に魅力的な説である。


 テンプル騎士団はフリーメイソンとならぶ西洋陰謀史観の二大震源地だが、17世紀末以降行方不明になっていたテンプル騎士団の裁判記録をヴァチカンが300年ぶりに公開するという(technobahnbreitbartCatholic News Agency)。
 所在がわからなくなっていたのは目録の記載が曖昧だったためだそうで、保存状態はきわめて良好らしい。公開された文書は300ページにおよび、ヴァチカンと関係の深いScrinium社が799部限定で売り出すという。価格は1セット96万円(!)。『ダ・ビンチ・コード』人気もあるから、数年もすれば一般向けの本が登場するだろう。
 テンプル騎士団の存在を知ったのは、御多分に漏れず、澁澤龍彥の『秘密結社の手帖』でだった。澁澤が生きていたら、この史料をどう料理しただろうか。