2007年7月30日月曜日

光市母子殺害事件と幼児神話

 山口県光市の母子殺害事件差戻審の三回目の集中公判が26日に終わった。
 前回は『魔界転生』が出てきて唖然とさせられたが、今回も被害者宅を訪問したのはピンポンダッシュだったとか、「ロールプレイングゲーム感覚だった」とか言いだし、証人の精神科医からは「死刑になって、来世で弥生さんの夫となる可能性がある」と拘置所で語っていた事実が明かされた。『サイコメトラーEIJI』や、アパートが怪物に見えるという話も出てきた。
 F被告と弁護団は被告の幼さを強調する方向で一貫している。幼さを強調することで、性的な色彩を薄めようというわけだ。


 被告「義母に昼休みだから戻った、とうそをついた後、後ろから抱きついて甘えた」
 弁護人「どうして抱きついたのか」
 被告「無性にさみしかったけえ、お母さんにいっしょにいてほしくて」
 弁護人「抱きつくのは性的な意味もあるのか」
 被告「義母には失礼だが、(中学1年のときに自殺した)実母に代わるものとして、母性を求めていた」

 この義母は20代のフィリピン人女性だそうである。そういう女性に抱きついておいて、性的な意味はまったくない、母性を求めていただけといっても説得力はない。
 いや、いくら性欲隠しをしようとしても、被害者をレイプしたという事実がある以上、下手な言い訳としか聞こえない。
 フロイトは幼児性欲を発見したが、幼児の性欲は口愛期や肛門期の多形倒錯の性欲であって、レイプをするような性器性欲ではない。
 もしF被告の精神的発達が著しく遅れていて幼児レベルだとしたら、被害者が脱糞した便を食べてしまうとか、被害者の肛門に異物を押しこむとか、正真正銘の変態行為におよんでいただろう。
 幼児性欲の理論を発展させたメラニー・クラインの『児童の精神分析』などを読むと、幼児の多形倒錯の世界がどんなに奇怪かわかる。幼児性を強調することで性欲隠しができると思っているのは、幼児が無垢だという幼児神話にとらわれているからだ。本当の幼児の心の世界はそんなものではないらしい。
 弁護団がF被告から遺族の神経を逆撫でするような発言を引きだしているのは(すくなくとも発言を止めていない)、精神鑑定に持ちこむためだという見方があるが、麻原彰晃のような状態であってもまだ佯狂を疑われ、死刑判決が出た。F被告の幼児性も異常性も中途半端である。あの程度で責任能力なしは無理である。
 弁護団は今回も逆手にこだわっていたが、絞殺という事実の前でどこまで意味があるのか。
 手の位置で犯行様態が大きく変わったというと、映画TVドラマになった大岡昇平の『事件』を思いだす。
 この事件は当初、姉と妹両方と関係した少年が痴情のもつれから姉をナイフで刺殺した単純な殺人事件と思われていたが、菊地弁護士の地道な調査の結果、事件の真相が明らかになり、少年の手の位置が決め手となり殺人ではなく、傷害致死であることが認められる。
 安田弁護士が菊池弁護士のような一発逆転をねらっているのかもしれないが、ナイフによる刺殺と、素手による絞殺ではまったく意味が違う。ナイフなら相手が倒れこんできた場合、殺すつもりがなくても絶命させてしまうことがありうるが、成人を絞殺するには六分以上、全力で首を締めつづけなければならない。絞殺は確定的な殺意がないと不可能なのである。特異体質であるとか、特別な事情がない限り、絞殺で傷害致死と認定されるのは無理だろう。