2007年7月24日火曜日

仙波龍英氏の思い出など

 2000年になくなった仙波龍英氏を偲んで『仙波龍英歌集』が六花書林から出ていた。
 まだ現物を見ていないが、生前刊行された『わたしは可愛い三月兎』と『路地裏の花屋』に若干の拾遺歌とインタビュー、藤原龍一郎氏の「メモワール」がはいっているという。2100円という定価は歌集としては異例に安い。一人でも多くの読者に読んでもらおうということだろう。大手書店のサイトを調べたが、どこも在庫がなかった。六花書林に注文するのが一番確実だと思う。
 仙波龍英氏とは学生時代に親しくしていただいた。わたしにとっては仙波さんというより氷神さんである。
 あれは大学にはいった年の夏休み明けだったと思う。ワセダ・ミステリ・クラブのたまり場だったモン・シェリの扉を開けると、クラブ員のたむろする一角の端にペイズリ模様のシャツを着たルー大柴のような新入会員がすわっていて、法学部三年の氷神琴支郎と名乗った。それが氷神さんこと、仙波龍英氏との出会いだった。
 ワセダ・ミステリ・クラブはミステリを千冊、二千冊以上読んでいるのは当たり前で、ポケミス全巻読破という強者もいたから、ミステリをろくに読んでいないわたしは肩身が狭く、読書傾向の重なる氷神さんと話すことが多かった。そのうちに学生時代からSF俳句で名をなしていた藤原龍一郎氏を師匠に「WMC詩人会議」を作ったりした。
 氷神さんは「短歌人」という結社に入会したが、投稿した歌を見せてもらうと仙波龍英名義だった。仙波龍英は師匠の藤原龍一郎さんから一字もらったペンネームだといっていたが、それが本名とわかるのはずっと後のことである。
 ワセダ・ミステリ・クラブのOBにはアルコール依存症になる人がすくなくなかった。直接知っている範囲でも三人がアルコール依存症で入院している。氷神さんもその一人だった。わたしは酒飲みが苦手なので、氷神さんとは疎遠になっていった。逃げたといった方が正確かもしれない。逃げておいて、今さら偲ぶふりなんてと、氷神さんは笑っているに違いない。
 ネットを検索すると、氷神さんを偲ぶページがたくさん見つかった。毎日新聞のサイトにも紹介があった。氷神さんはこんなに多くの読者をもっていたのである。これくらい物書き冥利につきることはない。


 氷神さんの訃報はOB会筋からすぐに知らされたが、SF関係の訃報は数ヶ月から数年遅れで知ることが多く、不義理を重ねている。矢野徹さんと深見弾さんは半年以上たってから知った。先日は野口幸夫さんが二年前に亡くなっていたことを知り驚いた。
 タイミングを逸したのでサイトには書かなかったが、矢野さんの座談は滅法おもしろかった。屋久島だったか、奄美大島だったか、南の島に旅行した話は今でも思い出す。まったくのほら話なのだが、あれくらいポンポン発想が出てこないと小説は書けないのだなと思った。右翼の矢野さんとソ連KGBの手先の深見さんのかけあい漫才も懐かしい。
 深見さんはナウカに長く勤務されていたが、取締役にされそうになったので辞めたと言っておられた。ロシア・東欧圏のSFの紹介者としてかけがえのない人だった。レムについては沼野充義氏が精力的に紹介をつづけておられるが、ロシア語のSFに関してはまだ後継者はあらわれていないようである。
 野口さんは「NW SF」でデビューしたのでNW系の人と見られているようだが、伊藤典夫を尊敬して翻訳家になった人で、伊藤組の若衆頭格だった。
 伊藤氏の影響からか、野口さんは1980年代の後半には翻訳論の迷路にはいりこんでおられた。佐久間さんも仕事をやめて翻訳専業になられた頃から、翻訳論というか、日本語論の迷路にはいりこんでおられた。家に閉じこもって文字に向かいあう生活をしていると、迷路に迷いこむ誘惑に身をさらすことになる。経験者でないとわかりにくいかもしれないが、迷路の中は意外に居心地がいい。
 酒の誘惑といい、迷路の誘惑といい、物書きの生活は本当に不健康だ。