2007年6月2日土曜日

「慈覚大師円仁とその名宝」展

 栃木県立博物館で「慈覚大師円仁とその名宝」展を閉幕ぎりぎりで見てきた。
 第三代天台座主円仁はライシャワーが「世界三大旅行記の一つ」と絶賛した『入唐求法巡礼行記』で知られるが、今年は下野を離れ比叡山に入山してから1200年目にあたり、生まれ故郷の栃木県で大規模な展覧会が開かれた。
 胎蔵金剛両界に蘇悉地をくわえた最新の密教を請来して台密の基礎を固めた人だけに、曼荼羅関係が多い。台密独自の熾盛光曼荼羅は明るくてモダンアートを思わせる。チベットっぽい印象もあるが、熾盛光は意識を頭頂部から離脱させ、光り輝かせるという行法だから(オウムのために悪い意味になってしまったあれに似ている)、チベット密教の影響を受けているのかもしれない。
 一番充実していたのは写経関係の展示だった。平安期から室町期にわたる装飾経はどれも保存状態がよく、バラエティに富んでいる。紺紙に金字と銀字を一行おきに配する様式は円仁が伝えたものだそうである。贅を凝らした経筥や経筒、円仁を偲んで写経する法然を描いた画幅もあった。
 天台宗は法華経を柱とする宗派で、経巻を神格化する傾向をもともと秘めていたが、円仁は写経の作法を確立し、写経信仰を弘める上で大きな役割を果たしたようだ。
 キリスト教でも聖書のきらびやかな写本がつくられたが、書写するのはもっぱら修道士だった。インドやチベットでも筆写は専門の僧侶がおこなった。中国がどうなのかはわからないが、ひょっとしたら在家信者が経典を筆写して功徳を積むという文化は日本仏教独自のものかもしれない。
 円仁は東北で布教を行なったことでも知られているが、立石寺に身体の骨とともに葬られたという頭部像は前期のみの展示で、写真でしか見ることができなかった。早く行っておけばよかった。