「澁澤龍彥の幻想美術館」展
澁澤龍彥の没後20年を記念して、埼玉県立近代美術館で「澁澤龍彥 幻想美術館」展が開かれている。澁澤というと鎌倉というイメージが強いが、澁澤家は血洗島に本拠をおいた豪商であり、埼玉は本貫の地にあたるのである。
美術館の二階すべてを使って、デューラーやピラネージ、ゴヤのエッチングやアルチンボルドの擬人画、タンギーやデルボー、エルンストのシュルレアリスム絵画など、澁澤の本でおなじみの作品のオリジナルが一堂に集められているのである。さらに澁澤の初版本や直筆原稿、部屋の写真などの資料類も展覧されており、ちゃんと見たら二時間はかかる。
展示は「澁澤龍彥の出発」から「高丘親王の航海」までの七部にわかれ、澁澤の59年の生涯をたどっている。最初の室に『のらくろ』や雑誌「コドモノクニ」をもってきたのは永遠の少年、澁澤龍彥の原点がここにあるという認識を示したものだろう。澁澤ワールドは巨大な子供部屋だといっても間違いではないのだ。
次の室は三島由紀夫の絶賛で異色のフランス文学者として知られるようになった1960年代。翻訳が猥褻にとわれたサド裁判の一方、瀧口修造らシュルレアリストや、舞踏の土方巽との交友がはじまっている。マン・レイの「サド侯爵の架空の肖像」のオリジナルも見ごたえがあるが、そのブロンズ像があったとは知らなかった。
第三室は澁澤の仕事のうち、もっとも影響力が大きかった「もうひとつの西洋美術史」がテーマである。本でいうと『悪魔の中世』、『夢の宇宙誌』、そして記念碑的な「手帖シリーズ」(『黒魔術の手帖』、『秘密結社の手帖』、『毒薬の手帖』)あたりだ。『ダ・ヴィンチ・コード』でテンプル騎士団やグノーシスが一般マスコミをにぎわすようになったが、ヨーロッパの裏思想史は澁澤が1960年代にとっくに紹介していたのだ。
澁澤は1969年にそれまで書物を通してしか知らなかったヨーロッパに長期滞在し、『滞欧日記』にまとめるが、実物を見る前と後では嗜好が微妙に変化・深化している。第四室はヨーロッパ滞在後の1970年代で、本でいうと、『ヨーロッパの乳房』、『幻想の画廊から』、『胡桃の中の世界』、『思考の紋章学』になる。この頃は雑誌連載中や本が出ると同時に読んでいる。どきどきしながらページをめくった興奮を思い出した。
第五室は澁澤に見出された四谷シモン、金子國義、山本六三ら、若い藝術家が中心で、作品的にはこの室が一番見ごたえがあった。文字どおりの三号雑誌となった「血と薔薇」を責任編集したのもこの時期である。「血と薔薇」は三号とももっているはずなのだが、どこへいったか。
第六室は博物誌で、荒俣宏の仕事の源流はここにある。第七室は日本回帰した晩年で、酒井抱一や河鍋暁斎がならんでいる。最近、再評価の著しい伊藤若冲はこの頃はまだほとんど知られていなかったが、澁澤はいちはやく注目していた。先見の明からいって、もっとたくさん展示してもいいと思うが、この展覧会ではあえてモノトーンの「付喪神図」を一点だけ選んでいる。キュレータもかなりの臍曲りのようだ。
最期の室の一番奥に四谷シモンが澁澤を偲んで製作した、まさに飛翔しようとする真っ白な天使が飾られている。咽喉癌と格闘し、声を失ったというと悲惨なようだが、『高丘親王航海記』のような軽みの域に達した洒脱な作品を闘病中に完成させているのである。澁澤龍彥は天使族の一員だという追悼のメッセージかもしれない。
澁澤が愛し紹介した作品をまとめて見て、澁澤美学の一貫性と影響の大きさを再認識した。日本のサブカルチャーは澁澤美学を源泉としているといっても過言ではない。『エヴァンゲリオン』も『攻殻機動隊』も澁澤の影の下にある。
指導的批評家としての小林秀雄の地位を吉本隆明が継ぎ、さらに柄谷行人が継承したという説がある。いや、江藤淳だろうという人もいる。小林は悟性と感性両面の指導者だったのに対し、江藤と吉本は感性の面が縮小し、柄谷にいたっては欠落している。戦後日本の感性の指導者は実は澁澤だったのではないか。そんな感想を持った。