2007年11月5日月曜日

「それでも生きる子供たちへ」

 ユニセフと国連世界食糧計画が後援した子供をテーマにしたオムニバスで、ルワンダ、セルビア・モンテネグロ、アメリカ、ブラジル、英国、イタリア、中国の七ヶ国の監督が参加している。どれも可哀想な子供の話だが、淡々とした語り口だけに余韻が残る。
 メディ・カレフの「タンザ」はルワンダの少年兵の話。大きな銃を脇にジャングルを書きわけて進む少年兵たちの眼光の鋭さにたじろぐ。この小隊ができて二年たつが、最初のメンバーは隊長とタンザしか生き残っていない。少年兵は使い捨てなのだ。
 小隊は敵の村に時限爆弾をしかける任務を命じられ、少年兵たちは爆弾のはいったバッグを下げて村に侵入する。タンザも受け持ちの建物に忍びこむが、そこは小学校だった。爆弾をしかけることを忘れて黒板を見つめるタンザ。
 エミール・クストリッツァの「ブルー・ジプシー」は得意のロマもの。少年院にはいっているマルヤンは出所が迫っているのに浮かない顔。少年院の中にいれば盗みをしなくてすむが、娑婆に出たらまた盗みをしなくてはならないからだ。
 マルヤンを迎えに家族がけたたましいロマの音楽を演奏しながらやってくる。駅の待合室では即興の演奏でみんなを浮かれさせ、その隙に子供たちに金を盗ませる。家族ぐるみ泥棒で暮らしているのだ。
 出所したマルヤンは父親から車上荒らしをしてこいと殴られ、早速盗みにいく。ドアを開ける手際が実に手慣れている。しかし、すぐに見つかり、追いかけられる。彼は少年院の塀を乗り越え、また中に。
 スパイク・リーの「アメリカのイエスの子ら」はブルックリンのスラムに住むブランカという黒人少女の話。両親はジャンキーだが、娘の前では麻薬は隠そうとしている。しかし、麻薬を射って死んだように横たわっている姿は隠そうとしても隠せるものではない。
 ブランカは母親から決まった時間にビタミン剤を飲むようにいわれているが、学校ではしばしば具合が悪くなり、微妙に敬遠されている。彼女は母体内でHIVに感染したエイズ・べービーだったが、そのことを知らされていないのだ。
 彼女は体調の悪化と周囲の微妙な視線、両親のひそひそ話から自分がエイズではないかと疑いはじめる。ブランカを演じる少女が愛らしい。
 カティア・ルンドの「ビルーとジョアン」はファベーラと呼ばれるブラジルの貧民窟でたくましく自活する兄妹の話。ファベーラでは廃品回収の仲買人がリアカーを貸して貧乏人に廃品を集めさせているが、ビルーとジョアンも大人に混じってリアカーを引いて街に出る。
 兄のビルーが思いつきで作ったゲームが街頭で人気を集め、予想以上の収穫があったが、週末なので時間までに仲買人のところにもどらなければせっかくの収穫がふいになる。兄妹は思いリアカーを引いて急ぐが、片方のタイヤがパンクしてしまう。修理してもらってやっと帰りつくが、すでに門は閉じていた。兄妹は必死で開けてくれと叫ぶ。
 「ジョナサン」のジョーダン・スコットはリドリー・スコットの一人娘で、父親との共同監督作品。PTSDで戦場カメラマンを廃業したジョナサンが故郷の森の中で経験する幻の戦争の話。ジョナサンは気がつくと子供にもどっていて、見知らぬ少年と少女に導かれて川沿いをさかのぼっていくと、硝煙の立ちこめる戦場に出る。この作品だけ、質が落ちる。
 ステファノ・ヴィネルッソの「チロ」はギャングに操られる子供窃盗団の話。
そこで彼らはボスにささやかなお願いをする―。
 ジョン・ウーの「桑桑(ソンソン)と小猫(シャオマオ)」は金持の娘桑桑が車から捨てたフランス人形を貧しい孤児の小猫が拾い、それが縁で二人が出会う話。

「ツォツィ」

 アソル・フガードという南アフリカの劇作家の同題の小説をギャヴィン・フッド監督が映画化。南アフリカの映画ははじめて見た。
 ヨハネスブルクの悪名高いスラム、ソウェト地区で育ったツォツィと呼ばれる青年が主人公である。ツォツィとはならず者という意味のよし。最初に通勤電車で実行される情け容赦のない犯行が描かれるが、かっこのつけ方がわざとらしいというか、一昔前の日活映画に似ている。
 ツォツィは次に裕福そうな若い黒人女性の運転するBMVを狙う。豪邸の門を開けるために降りたところを襲い、乗り逃げしようとするが、女性が追ってきたので銃弾を浴びせて殺してしまう。
 彼女が車に追いすがったのは赤ん坊が中で寝ているからだった。ツォツィは赤ん坊は殺せず、いっしょに連れて逃げまわることになる。
 映画の作り方としては古風で鼻白む部分があるが、直球勝負のよさがある。音楽の迫力は特筆もの。

2007年11月3日土曜日

「ベルト・モリゾ展」

 損保ジャパン東郷青児美術館でベルト・モリゾ展を見た。すばらしかった。
 ベルト・モリゾはマネの女弟子で、「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ」など名画のモデルをつとめたことでも有名だが、近年になってもっとも印象派らしい印象派として再評価が著しい。日本では昨年ようやく画集が出版されたところで、大規模な展覧会としてはこれが最初である。なお、画集は一冊だけなのに、評伝はドミニク・ボナの『黒衣の女ベルト・モリゾ』と坂上桂子の『ベルト・モリゾ―ある女性画家の生きた近代』の二冊が出ている。作品よりも人物に対する興味が先行している段階のようである。
 彼女はマネの弟のウジェーヌと結婚し、ジュリーという娘をもうけているが、ジュリーを描いた絵が柱となっており、赤ん坊の頃から成人するまで、ほぼ成長を追って展示されていた。母になる前の絵はところどころ才気走ってはいるが、それほどおもしろくない。彼女の才能が本当に開花するのは母になってかららしい。
 ジュリーは母親に匹敵する美貌のもちぬしで、絵から絵に移るにしたがい、愛くるしい少女から臈たけた娘へと開花していく。十代後半のジュリーを描いた「夢見るジュリー」は白いドレスに長い髪を垂らし、物憂げな視線をこちらに投げる。象徴派の世界である。白鳥がよく出てくるのも、象徴派の影響だろうか。
 羊飼の娘のヌードの油彩と下描きがあった。麦わら帽子をかぶり、地面に伏せて横たわった姿だ。顔をはっきり描いておらず、ジュリーの年齢と近いところからひょっとしたらと思ったが、図録を見るとガブリエル・デュフールという娘がモデルだそうである。自分の娘と近い年齢の少女をモデルに選ぶというのはどういうことなのだろう。
 晩年はタッチが大胆になり、ほとんど走り描きに近く、軽みの境地を感じさせる。後期印象派とは対蹠的だが、印象派の初発の方向を突きつめるとこうなるのかもしれない。
 ウジェーヌの死後、マラルメがジュリーの後見人をつとめたことからもわかるように、彼女はフランス象徴派の詩人たちと親しかった。ジュリーと姉妹のように育った従姉妹のジャンニはマラルメの弟子のヴァレリーと結婚している。描かれている日常風景を見るとモリゾ家もマネ家も大ブルジョワであって、ヴァレリーが今でいう逆玉婚といわれていたのは事実だったのだなと思った。ヴァレリーは国葬をもって送られるほどのフランス文化の代表者となるが、『若きパルク』で文壇に再デビューするまでは目立たない安月給とりにすぎなかった。こんな華麗な一族の中ではさぞ肩身が狭かっただろう。

2007年11月2日金曜日

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」

 社会現象にまでなったTVシリーズを4本の劇場用映画に作り直すシリーズの一本目である。台本はもちろん、カット割りまで忠実に再現しているよし。21世紀の話なのにテープ式のウォークマンだったり、携帯電話ではなく公衆電話だったりする部分もそのままになっていて、十年という時間を感じさせる。
 「ヱヴァンゲリヲン」は再放送を録画したりして何度か見ようと試みたが、数回分見ただけだった。学園もの的部分が鼻について、はいりこめなかったのだ。
 映画館という逃げ場のない場所で見れば、いやでも見通すことになるので見てみたが、若い人に受けるように上手く作られていることがわかった。思春期の危ない部分をスパイスに使うとか、よく出来ているとは思うが、学園もの的な趣向にどうしても異和感を感じる。若い人にはそこがたまらないのだろうが。

2007年11月1日木曜日

「スターダスト」

 ニール・ゲイマンが1997年に発表した同題のファンタジーをマシュー・ヴォーンが映画化。
 映画ファン感謝デーなので、一番すいてそうなこれを見たが、意外によかった。ありきたりのファンタジーではあるが、豪華キャストだし、特撮はよくできているし、もっと評判になってもいい映画だと思う。
 ウォール村の青年トリスタン(チャーリー・コックス)は魔法の国ストームホールドの王女と人間の男の間の子供だったが、自分が高貴な生まれだとは知らず、村一番の美女のヴィクトリア(シエナ・ミラー)に恋していた。ヴィクトリアは金持の息子の方に気があり、トリスタンなど眼中にないが、彼は愛を示すために、ちょうど地上に落ちてきた流れ星を結婚指輪の代わりに一週間以内に持ってくると誓い、村はずれの壁を越えて妖精の国に旅だっていく。
 おりしもストームホールドでは王(ピーター・オトゥール)が亡くなり、トリスタンにとっては伯父にあたる七人の王子の間で王位継承の争いがはじまっていた。王位につくには王位継承の徴であるルビーを手にいれなければならないが、ルビーは天空高く飛び去り、星を一つ流れ星に変えて地上に落下したのだ。
 トリスタンは父から母の形見としてもらった魔法の蠟燭によって流れ星の落下地点に瞬間移動するが、流れ星はイヴェイン(クレア・デインズ)という美女に姿を変え、王位継承のルビーを胸にかけていた。彼はイヴェインを連れて人間世界にもどろうとするが、ルビーをねらう王子たちと、流れ星で若返ろうとする老いた魔女(ミシェル・ファイファー)が三つ巴になってイヴェインを奪いあう。
 冒険の途中には、ほとんど必然性がないのに、キャプテン・シェイクスピア(ロバート・デ・ニーロ)率いる空飛ぶ海賊船がからんでくる(明らかに『天空の城ラピュタ』のパクリ)。
 ミシェル・ファイファーが恐怖の老けメイクを披露したり、デ・ニーロが女装趣味の船長を楽しそうに演じたりとサービスたっぷりで楽しめる。
 ヒロインのクレア・ディンズが意外によかった。デインズは好きではなかったが、『エターナル・サンシャイン』とこの作品で見直した。
 バルトという新宿東映の跡地にできた丸井の中のシネコンで見たが、音響がすばらしかった。端席だったのに、音がばっちり定位したのだ。録音もいいのだろうが、最近の音響設備はすごい。

2007年10月31日水曜日

「自虐の詩」

 業田良家の漫画を堤幸彦が映画化。「自虐」は「あい」とも読む。
 非現実的なくらい不幸な女性を中谷美紀がまたもコミカルに演じていて、『嫌われ松子の一生』と完全にかぶっている。中谷美紀はマゾなのかと疑いたくなるが、映画としてはこちらの方が格段におもしろい。堤幸彦作品の中でも一番いい(というか、はじめておもしろいと思った)。
 物語は幸江の中校時代からはじまる。幸江は貧しい家計を助けるために新聞配達をしていたが、家にもどってみると警察の車が。父親(西田敏行)がまぬけな銀行強盗をやって逮捕されたのだ。犯罪者の娘になってしまった幸江は気仙沼にいられなくなり、唯一の親友である熊本さんに見送られて上京する。
 十数年後、幸江は元ヤクザのイサオ(阿部寛)と、大阪の通天閣の見える下町で暮らしている。イサオはパチンコ三昧で働かず、気にいらないことがあるとすぐに卓袱台をひっくりかえす。幸江はラーメン屋でアルバイトをして、ひたすらイサオに尽くしている。
 どん底話と平行してイサオとのなれそめが語られるが、どちらも予想通りのベタな話である。意外性はまったくないが、それでもおもしろいのは中谷美紀の不器用さというか社会との異和感が画面ににじみでているからだと思う。彼女は柴咲コウとよく間違えられるそうだが、柴咲コウがこの役をやったらウソになってしまう。この映画は中谷美紀だからこそ成立している。
 DVDは来年3月発売だが、中谷美紀の撮影日記とナビゲートDVDが出ている。

2007年10月30日火曜日

「たとえば野に咲く花のように」

 新国立劇場中劇場で鄭義信作、鈴木裕美演出の「たとえば野に咲く花のように」を見た。
 新国立劇場は今年7月、芸術監督が栗山民也から鵜山仁に交代したのを機に「三つの悲劇」と題して、ギリシャ悲劇を現代日本に翻案した新作三本を上演する。「たとえば野に咲く花のように」はその第二作にあたる。
 舞台は1951年夏の九州の場末のダンスホール。下手に玄関。中央下手寄りに大きな階段。上手寄りにバーのカウンター。上手には窓が大きく切られている。二階はダンサーたちの個室で、そこで客をとるようになっている。
 港町という設定で、町は朝鮮戦争特需で景気がいいが、表通りに特需成金の安部康雄(永島敏行)が立派なダンスホールを開店したので、こちらは閑古鳥が鳴いている。ダンサーは三人に減り、マザコン気味の自衛隊員など、常連にたよって細々と営業している。
 ヒロインの安満喜(七瀬なつみ)は弟と二人暮らしだが、弟は戦時中、憲兵だった引け目から北朝鮮に肩入れし、米軍妨害工作にくわわっている。
 ある夜、弟の仲間がライバル店の支配人の直也とオーナーの康雄に追われてダンスホールに逃げこんでくる。満喜は彼をかくまい、一歩も引かずに毅然と応対するが、康雄は満喜の気っ風に惚れ、毎晩通ってくるようになる。
 康雄は満喜に結婚を迫るまでになるが、満喜は日本軍に志願して南方で死んだ婚約者が忘れられず、申し出をはねつける。
 康雄の婚約者のあかね(田畑智子)は康雄の心変わりにアル中になり、店に怒鳴りこんできたりするが、まともにとりあってもらえない。あかねを慕う直也はあかねの心中を察して、康雄に刃を向けるが……。
 ラストは意外にもハッピーエンド。三人のダンサーはそれぞれ妊娠してダンスホールを去っていく。女はたくましい。
「アンドロマケ」をもとにしているというが、どこが「アンドロマケ」なのか首をかしげた。朝鮮戦争で儲けた成金と朝鮮人娼婦の話なので、まったく無関係とまではいわないが、当時の在日韓国・朝鮮人は自分たちを戦勝国の一員と思いこんで傍若無人にふるまっていたわけで、亡国の王妃に見立てるのは話が違う。
 しかし、朝鮮戦争当時の荒くれた世相を描いた風俗劇としてはよくできている。あれこれあっても、結末は希望を感じさせる。
七瀬なつみは鉄火肌の娼婦を熱演し、新境地を開いた。出番はすくなかったが、アル中のお嬢様を演じた田畑智子の可愛らしさは特筆したい。彼女のためだったら、直也が狂うのも無理はない。

2007年10月25日木曜日

情報通信法、官の言い分

 ICPFセミナー「通信・放送の総合的な法体系を目指して」を聴講してきた。講師は情報通信法を担当する総務省情報通信政策局総合政策課長の鈴木茂樹氏で、やる気むんむんというか、50年に一度の大改革を手がける喜びに舞いあがっている印象を受けた。制度をゼロから設計する機会にめぐりあえたのは役人冥利に尽きるといったところか。
 鈴木氏は情報通信法はあくまでもIT産業振興のための規制緩和であり、新たな規制でしばろうとするものではないと熱弁をふるった。レイヤー型法体系という世界最先端の法体系を整備することで日本のIT産業が復活すれば、他の国も日本に倣うようになり、いち早くレイヤー型法体系に慣れた日本企業の国際競争力が高まるとも説いていた。ほとんど新制度のセールスマンである。
 講演の部分はどこかで読んだような話ばかりで新味はなかったが、質疑応答はおもしろかった。
 まず、資料中の怪しげな数字に突っこみがはいった。鈴木氏の講演は日本のIT産業に対する危機感を煽り、その処方箋として情報通信法を持ちだすという趣向になっているので、資料にはセールストークというか、素人だましの数字がまじっているのである。今回配布された資料は他の機会でも使われてきたと思われるが、具体的な指摘に鈴木氏はあわてていた。
 こんなドラスティックな改革が本当にできるのかと先行を疑問視する声も出た。講演では各界から寄せられたパブリック・コメントの傾向が紹介されていたが、中でも放送界は警戒感を隠さず、断固反対の構えのようである。鈴木氏は放送界について、地方局は遠からずやっていけなくなるという意味の見通しを語った。県域免許制の矛盾は多くの人が指摘しているが、総務省の担当者自身が婉曲ながら、地方局の自滅の可能性に触れた意味は重い。
 コンテンツ規制や著作権については情報通信法の範囲外といわんばかりの答えをしていた。
 情報通信法は産業政策だとしきりに強調していたが、では遅れた法体系で動いているアメリカがなぜ強いのか。レイヤー型法体系に変えて、本当に産業振興になるのか。その辺りの明確な答えはなかった。

2007年10月24日水曜日

「毛皮のエロス」

 女流写真家ダイアン・アーバスの生涯を題材に、勝手な妄想をくりひろげた贋伝記映画である。パトリシア・ボズワースの『炎のごとく―写真家ダイアン・アーバス』が原作ということになってはいるが、半分以上はフィクションといっていい。
 ダイアン(作中では「ディアン」と発音)は百貨店主の娘として生まれて何不自由なく育ち、ファッション写真家のアラン(タイ・バーレル)と結婚してからは撮影のアシスタントをつとめ、二人の娘を育てるという、健全きわまりないアメリカ女性だった。
 しかし、良妻賢母の生活だけではエネルギーをもてあまし、彼女はしだいに気鬱に陥っていった。
 そんな時、一つ上の階にライオネル(ロバート・ダウニーJr)という謎の男が越してくる。夏なのにコートを着こみ、目出し帽のようなマスクをかぶり、こっそり出入する。しかも、奇型の客が人目を避けてしょっちゅう訪問しているらしい。
 彼女はライオネルの正体をさぐろうとし、多毛症という奇型であることをつきとめるが、その頃には彼に引かれるようになっていた。彼女は精神的な不倫関係におちいり、フリークスの世界に導かれていった。
 健康なアメリカ女性が異形の男に惚れたばかりに頽廃の世界にのめりこんでいったというストーリーになっているが、これはニコール・キッドマン主演を前提にした当て書きだろう。
 実際のダイアンはニコール・キッドマンとは似ても似つかない東欧ユダヤ人の顔をしていて、大きな愁いを帯びた眼はカフカを思わせないではない。ダイアンの兄はハワード・ネメロフという一家をなした詩人であり、一族には気鬱症をもっている者が多いというから、芸術的天分というか病気の要素は生来のものといえよう。
 困ったことに、この映画、かなりおもしろいのである。ダイアン・アーバスはこの映画のような女性だったと誤解する人が増えそうだ。ダイアンの遺族は伝記の類をかたくなに拒否しているということだが、よくこの映画を許可したものだ。
 彼女の作品集は筑摩から出ていたが、現在は絶版である。アメリカ版なら"An Aperture Monograph"、"Magazine Work"などがペーパーバックで入手できる。

「ボッスン・ナップ」

 黒人英語で娼婦の元締のことを「ピンプ」というが、そのピンプの一代記である。主演のスヌープ・ドッグはラップ界のスーパースターだそうである。ラップはまったくわからないが、この映画はおもしろい。
 コーデー(ドッグ)はしがないスーパーの店員だったが、なぜか女にはもてた。ある日、オレンジ・ジュース(ホーソーン・ジェームズ)という高名なピンプが豪華なリムジンを乗りつけてきてコーデーを招ききれ、お前にはピンプの才能がある、これはという女を見つけたら力になってやってもいいと申しでる。
 コーデーはシャルドネ(シラエ・アンダーソン)という上玉の女と出会い、ピンプになる決心をする。オレンジ・ジュースの教えを忠実に守り、かかえる娼婦をどんどん増やして業界の注目を集め、ピンプの全米大会でその年の最優秀ピンプに選ばれるまでになる。
 成功とともに慢心が生まれる。女に本気で惚れるなというオレンジ・ジュースの教えを破り、シャルドネと結婚を決意したのだ。二人で街を出ようと矢先、悲劇が起こる。かつてコーデーに娼婦を奪われたピンプがシャルドネを刺し殺したのだ。コーデーはシャルドネの仇をとり、殺人罪で下獄する。獄中で歌う悲しみと悔恨の歌は泣かせる。
 コーデーと喧嘩別れしたオレンジ・ジュースは腑抜けのようになって出所してきた彼をあたたかくむかえる。コーデーは再びピンプ稼業をはじめ、オレンジ・ジュースの片腕となって後進を指導する立場になる。
 オレンジ・ジュース役のジェームズはピンプ界のヨーダという貫禄で、かっこいい。ピンプ道なんてあるはずもないが、あるかのように大真面目に作っているところが笑える。
 黒人しか出てこない映画で、全編ブラック・ミュージックが横溢している。ゴージャスさと安っぽさがいりまじり、ギトギトに脂っこくて最初は戸惑ったが、すぐに引きこまれた。愛すべき小品といえよう。