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2007年10月22日月曜日

ダーリンはユダヤ人?

 最近、NHK BS2の「奥さまは魔女」にはまっている。4月くらいに第1シーズンから放映をはじめたらしいが、7月に気づき、以来、録画して見ている。
 白黒時代の初放映時に最初の方は見ているが、今見ても最高に面白い。半世紀近くも前に、カラーでこんなTVドラマを作っていたことに驚かされる。アメリカでは途切れることなく延々と再放送をくりかえしているそうだが、それもうなづける。
 今、タバサがよちよち歩きをはじめたところだが、アダムという男の子も産まれるようだ。全254話もあるそうで、昔見たのは第3シーズンくらいまでだったと思う。お向かいのグラディスさんの女優が交代したことは憶えているが(最初のアリス・ピアースが断然よかった)、ダーリン役のディック・ヨークが降板したのは知らなかった。驚いたことに、成長したタバサを主人公にした番外編まで作られていた。
 一つ、気になっていることがある。スティーブンス家の玄関の脇に大きな七枝燭台が飾ってあることだ。ダーリンはユダヤ人という設定だったのだろうか。
 いろいろ検索したが、そういう指摘をしているページは見つからなかった。七枝燭台は統一協会も使っていることがわかったが、スティーブンス家には多宝塔や壺は見当たらないし、1964年という製作年代を考えると、ダーリンとサマンサが合同結婚式で結ばれた可能性はないと思う。
 となると、ダーリンはやはりユダヤ人か。アメリカは進化論裁判の国なので、いくらコメディでも、キリスト教徒と魔女を結婚させることにはさわりがあるということだろうか。
 「奥さまは魔女」の蘊蓄を集めた『「奥さまは魔女」よ、永遠に』という本が邦訳されているそうだが、それを読めばはっきりするのだろうか(邦訳は絶版なので原書を読むしかないが)。英語では"The Magic Of Bewitched Trivia And More"という本も出ているようだ。英語となると、ちょっと億劫である。誰か知っている人がいたら教えてほしい。

2007年8月18日土曜日

「五木寛之 21世紀・仏教への旅」日本・アメリカ編

 「仏教への旅」最終回は五木寛之が近年関心をもっている他力の思想がテーマだった。
 五木は他力という観点から半生をふりかえった『他力』を1998年に出版したが、この本は "Tariki" として英訳され、ニューヨークではベストセラーリストにはいるほどの売行を見せたという。
 他力の思想をアメリカ人に問いかけるのが今回の趣旨だが、結果はすれ違いに終わった。日本の武道を教えているオヤジが "Tariki" に感動したと熱っぽく語っていたが、あれはどう見ても日本ヲタクの一方的な思いいれだ。9.11の遺族で、イラク戦争に反対しているお婆さんが出てきたが、自分の活動の範囲でしか語っていなかった。
 チベット仏教の権威のロバート・サーマン氏も登場したが、他力思想は知識として知っているだけで、特に関心をもっているわけではなかった。
 番組では触れていなかったが、彼は女優のユマ・サーマンの父親である。ユマ・サーマンは子供時代にヒッピーの父親にひっぱりまわされてインドを放浪したとインタビューでこぼしていたが、そのヒッピーの父親がロバート・サーマン氏なのである。"Inner Revolution" などチベット仏教関係の著書が多数あり、"The Jewel Tree of Tibet" という講義のCDも出ている。
 "Tariki" を読んだキリスト教の説経師が五木に、生きようという意志があったから、敗戦の混乱の中で生きのびることができたのだろうと反論していたが、あれがアメリカ人の本音だろう。最後にアメリカで成功した禅僧が登場し、自力と他力は一致すると語っていたが、アメリカ人にはそこまではわからないのではないか。
 アメリカは努力をよしとする文化なので、禅やチベット密教のような厳しい修行をともなう仏教は受けいれられやすいが、他力の思想は一番受けいれられにくいのではないかと思う。エイズで死にかけている人とか、罪を認めている死刑囚とか、努力が無意味になった人に問いかければ別かもしれないが、相手を間違えている。

2007年8月17日金曜日

「五木寛之 21世紀・仏教への旅」中国・フランス編

 「仏教への旅」第4夜は禅宗をとりあげていた。本は『21世紀 仏教への旅 中国編』が出版されている。
 まずフランスの禅ブームを紹介し、次に禅の源流である中国を訪ねるという段取である。
 フランスの禅ブームはブームとはいっても、一過性の底の浅いものではなく、社会の一角にしっかり根をおろしているようである。
 今日の禅の隆盛をもたらしたのは弟子丸泰仙師だった。弟子丸師は1967年にフランスにわたり布教をはじめたが、まず1968年の5月危機で挫折し、方向を見失っていた学生の心をつかみ、しだいに地歩を固めていった。今ではインテリのみならず、ビジネスマンや労働者に間にも禅の実践者が増えているという。弟子丸師は禅を宗教としてではなく、心を安静にする技術として伝えたので、カトリックの内部でも禅がおこなわれている。
 弟子丸師は自分は種をまいただけで、フランスにはフランスの禅があるから、日本の禅のまねをする必要はないとくりかえし語っていたそうだ。そうはいっても、コアな修行者は日本の禅寺そっくりの道場を作り、厳粛な修行をおこなっているようだ。キリスト教には修道院の伝統があるから、禅寺のスタイルはそれほど抵抗がないのかもしれない。
 中国編は禅を中国化し、民衆に根づかせた六祖慧能が中心だった。五木は慧能の創建した南華寺を訪れた。住職はこの寺の僧侶はみな慧能直系の弟子ですと胸を張っていたが、驚いたのは自由な座禅のスタイルだ。団扇であおぎながら座っているのである。これが南宗禅なのか。慧能の自由闊達な精神は禅宗よりも道教がうけついだと道教関係の本に書いてあって、それを真に受けていたが、どうもそうではなかったようである。

2007年8月16日木曜日

「五木寛之 21世紀・仏教への旅」ブータン編

 「仏教への旅」第3夜はチベット仏教を国教とする唯一の国、ブータンをとりあげていた。本は『21世紀 仏教への旅 ブータン編』が出版されている。
 ブータンは1970年代まで鎖国をつづけていたので「秘境」のイメージが強いが、今は多くの外国人が訪れ、衛星放送やインターネットで情報が流入しているのは「ザ・カップ 夢のアンテナ」を見てもわかる。
 ブータンは近代化途上の国だが、近代化には地域差がある。ブータンは九州程度の面積とはいえ、ヒマラヤの山腹にひろがっているために、数千メートル級の山脈によって国土が細かく分断され移動がままならない。五木寛之一行も相当難渋していた。
 五木は近代化のある程度進んだ首都近辺と、ブータン古来の姿をとどめる中央ブータンの二ヶ所でブータン仏教の現在をさぐった。中央ブータンの方は大体予想通りの映像で、首都近辺の方が興味深かった。英語はブータンの公用語の一つになっているが、ドテラのような民族衣装の人も普通に英語を喋っていた。英語で答えることのできる人のインタビューだけを選んだのだろうが、英語の普及度は高そうだ。服装は欧米風も多かったが、当たり前にマニ車をまわし、インタビューされると輪廻転生の世界観と仏教の教えを語り、ブータンの代名詞のようになっている「国民総幸福量」(Gross National Happiness)にふれた。編集がくわわっているにしても、近代化と仏教文化の共存はうまくいっているように見えた。
 「国民総幸福量」はともかくとしても、インテリたちが近代化に焦っていないのは確かなようだ。ブータンが開国したのは先進国の行き詰まりが明らかになってからだから、立ちどまって考える余裕があるのだろう。
 国家シンクタンクにあたるらしいブータン研究所の所長で、欧米や日本に留学経験のあるカルマ・ウラ氏と、ブータン仏教界の重鎮のロポン・ペマラ師に、子供から「どうして人を殺してはいけないのか」と訊かれたら、どう答えるかと質問していたが、二人の受け答えには自信があふれていた。日本のインテリには、この質問に彼らほど自信をもって答えることのできる人がどれだけいるか。
 もっとも、答えの内容は輪廻転生を前提とした仏教的なものだった。日本の子供たちがあの答えで納得するかどうかは別である。
 ブータン仏教にも問題がないわけではない。チベット仏教でいう活仏(高僧の生まれ変わり)をブータンでは化身というが、近年、化身が増えすぎたことが問題になっているという。国が把握しているだけで百人以上いて、化身の増加に歯止めをかけるために化身認定委員会が作られている。
 「ザ・カップ 夢のアンテナ」は化身の高僧が監督したことが話題になったが、出演した少年僧の大部分も化身だった。化身の人気は絶大なので、うちの寺にも化身がほしいと考える人が多いということだろう。

2007年8月15日水曜日

「五木寛之 21世紀・仏教への旅」朝鮮半島編

 「仏教への旅」第2回は「朝鮮半島編」となっているが、仏教の取材で北朝鮮にはいれるはずはなく、もっぱら韓国の話題だった。本は『21世紀 仏教への旅 朝鮮半島編』が刊行されている。
 番組は以下の三つのテーマが柱となっていた。

  • 五木自身のセンチメンタル・ジャーニー
  • 韓国の若者の間に広がる仏教熱
  • 華厳経中心に形成された朝鮮仏教

 朝鮮仏教が華厳経を選んだ理由は前から気になっていた。それは日本仏教がなぜ法華経を選んだのかと問うことでもある。
 番組では「華厳縁起絵巻」で日本でも知られている義湘と善妙の悲恋物語を紹介し、義湘の開いた皇龍寺の祠に残る善妙のあでやかな塑像を映した。華厳経学を大成した学問僧がこんな形で民衆に慕われつづけていたわけである。
 五木は朝鮮民族のネアカな気質が華厳経の前向きの世界観と合っていたと語っていたが、このあたり、よくわからない。
 日本仏教で法華経が重きをなすにいたったのは、最澄が比叡山に天台宗の拠点をつくったことが大きい。華厳教学は奈良の官寺にとどまったが、比叡山で天台を学んだ鎌倉仏教の祖師たちは法華経を出発的に思想をねりあげ、民衆の中へ出ていった。
 もちろん、法華経の思想を発展させた新仏教が日本の民衆に歓迎されたのは、法華経が日本人の心の琴線にふれたからだろう。今でも法華経に関する一般向けの本は膨大な数が出ているし、文学者が仏教にかかわる場合は法華経か親鸞のどちらかである。華厳経をとりあげた文学者というと、石川淳と岡本かの子くらいしか思いつかない。石川の場合、根が朱子学なので、華厳経の世界観と近かったということがある。
 もっとも、禅宗は華厳だという見方があるし、真言密教は華厳と近いともいわれている。日本にも華厳経の世界観ははいっていないわけではないが、法華経と較べると影が薄い。
 華厳経になくて法華経にあるのは排他主義だと思う。法華経は法華経のみを崇めることをもとめており、異端者に対して厳しい。仏教で異端を問題にするのは法華経くらいなもので、その点はキリスト教なみである。吉利支丹に対してもっとも戦闘的だったのは法華宗だった。
 浄土真宗もキリスト教なみに戦闘的だったが、信長に牙を抜かれ、家康に飼いならされてしまった。法華宗も信長にたたきのめされたものの、法華経という牙はたもちつづけ、江戸時代には吉利支丹なみに弾圧された不受不施派を生んだ。明治以降、仏教系新興宗教の母胎となったのは法華経だった。
 韓国の場合、新興宗教の母胎となったのはキリスト教だった。韓国のキリスト教信者の大半は、実際にはキリスト教系新興宗教の信者のようである。
 近代化が進むと、激烈な宗教感情を必要とする人が増えてくる。あてずっぽうだが、激烈な宗教感情をもちたい人は日本では法華経系の新興宗教にはいり、韓国ではキリスト教系新興宗教にはいるということではないか。日本におけるキリスト教の最大のライバルは今も昔も法華経なのかもしれない。

2007年8月14日火曜日

「五木寛之 21世紀・仏教への旅」インド編

 昨年、NHKで一年がかりで放映されたハイビジョン特集「五木寛之 21世紀・仏教への旅」シリーズの再放送がNHK総合ではじまった。
 仏教はインドでおこり、東アジアと東南アジアにひろがり、今、欧米にも影響力をおよぼしつつあるが、その現状を五木がレポートしている。
 全5回のうち、今日は第1回のインド編である。小乗経典の方の涅槃経(『ブッダ最後の旅』)に記された霊鷲山から釈尊終焉の地、クシナガラにいたる道程を五木がたどる。旅の模様は『21世紀 仏教への旅 インド編』として本になっている。DVDはまだ発売されていないが、評判の番組だから出るかもしれない。
 霊鷲山からクシナガラまではおおよそ400kmある。華やかな色の合成繊維の衣類やプラスチック製品がゆきわたっているが、広大なサバンナと照りつける太陽は2500年前と変わっていないだろう。釈尊一行が滞在したマンゴー林を彷彿とさせる果樹園も登場した。五木は冷房つきの自動車で移動したが、炎天下、悪路の旅は体にこたえたようだ。
 釈尊はパーヴァ村の鍛冶工の子チュンダのさしあげたきのこ料理にあたり、それがもとでみまかった。毒きのこがまじったいたのではないかとみられている。
 ヨーロッパではユダヤ人はキリストを処刑した呪われた民族として迫害された。鍛冶工は伝統社会では差別の対象であり、釈尊の毒殺の嫌疑をかけられてもおかしくない状況だった。釈尊はきのこ料理の異変に気づくと、ただちに料理を土中に埋めるように言いつけ、チュンダに責任がおよばぬように最大限の配慮をおこなっている。仏教は四姓平等を標榜する宗教だけに、鍛冶工を釈尊毒殺の張本人として追求するようなことはなかったようである。
 五木は現代のパーヴァ村を訪れ、鍛冶屋を見つける。さすがにチュンダの子孫ではなかったが、鍛冶屋の主人は釈尊が村を訪れたという伝説を伝えていた。仏教はインドでは滅びたが、釈尊はヴィシュヌ神の化身としてヒンズー教のパンテオンにとりいれられたので、伝説が残ったのだろう。
 番組では中村元訳の朗読が挿入されたが、繰りかえしの多い行文は耳で聞くと抵抗なくはいってくる。シリーズの今後を期待させるいい番組だった。