2007年9月22日土曜日

「勅使河原宏展」

 埼玉近代美術館で「勅使河原宏展-限りなき越境の軌跡」を見た。
 勅使河原宏氏は安部公房作品を映画化しただけでなく、敗戦直後に「世紀の会」を結成し、ともに前衛芸術運動を推進してきた仲間だった。家元継承後は陶芸や竹のインスタレーションに力をいれ、映画も「利休」、「豪姫」と伝統回帰した印象があったが、今回の展覧会を見て、最後まで前衛をつらぬいていたこと知った。
 入口をはいると、Ω型に曲げた竹をつらねたトンネルを歩いて展示場に導かれるのであるが、カーブしているせいか屋内とは思えないくらい長く感じた。聞けば30mもあるという。
 第一室は活花だが、なまものだけに写真展示が主だった。活花はわからないが、未来建築のような印象である。こういうものが部屋に飾ってあったら、落ちつかないだろう。
 第二室は竹のインスタレーション。写真と記録映画が主だが、物量を投入した野外展示のすごさに度肝を抜かれた。膨大な数の青竹が整然とならべられ曲げられているが、内側の反発力が頑強なしなりを生み、一本一本が激しく自己主張している。竹は単なる素材以上のものになっている。実物を見たかった。
 映画は「勅使河原宏の世界」としてDVD化されているが、竹のインスタレーションの映像は今のところ発売されていないようだ。ぜひDVD化してほしいと思う。
 第三室は「利休」に捧げた書と陶芸。竹をそのまま炭に焼いたような黒い肌の焼物が多く、いかにも前衛芸術という印象だ。豪快というべきなのだろうが、正直いって、この部屋の作品はわからない。
 第四室は映画監督と草月プロデューサーとしての勅使河原。室の入口で「砂の女」、「他人の顔」、「おとし穴」の予告編をエンドレスで上映しているが、つい見いってしまった。
 脚本や絵コンテ、セットの設計図などの資料類が中心だが、「他人の顔」関係が多い。細く尖らした鉛筆で書いたとおぼしい細心精密な筆致で、第一室から第三室までの豪放磊落な印象とは180度違う。
 「他人の顔」の診察室に出てきたアクリル板の間に人体の部分をはさんだオブジェの実物が展示されていた。画面では安っぽく見えたが、実物は一個の芸術作品である。手や足は実物大で、人体を形どりしてレジンを流しこんだのかと思ったが、近くで見ると筋肉や皮膚の凹凸が誇張されているのがわかる。
 「砂の女」関係資料は青焼きの図面二枚と、カンヌの賞状しかなかった。残っていないということだろうか。カンヌの賞状は二つ折りで、左側は水彩とおぼしい絵で、それ自体、一つの作品といっていいくらいのものだった。
 第五室は「世紀の会」時代の作品で、安部公房ファンには一番興味深い部屋だ。
 勅使河原は芸大の日本画科出身だが、なぜか油彩ばかり、それもタンギーを思わせる絵など最初から前衛していた。安部公房の医学部卒業のようなものか。
 「世紀の会」は「世紀群」という機関誌を出していたが、その実物が展示されている。プロの手になると思われる謄写印刷で保存状態がいい。安部公房は第四号に「魔法のチョーク」を寄稿しているが、その挿画が勅使河原なのである。貼込で、手彩色らしく実に鮮かだ。

2007年9月20日木曜日

「14歳」

 深刻かつ疲れる映画である。
 最初に女子中学生が教師を刺す場面があるが、その中学生は成人して中学教師になっている。深津稜(並木愛枝)26歳である。
 深津の同級生でピアノをやっていた杉野浩一(監督もつとめている廣末哲万)は音楽をあきらめて技術者になっているが、会社の社長に頼まれて息子の雨宮大樹(染谷将大)にピアノを教えることになる。大樹は深津の教え子でもある。
 深津の担任するクラスを中心に話が進むが、鬱屈をかかえた爆発寸前の生徒ばかり。深津自身、カウンセラーに通いながら教師をつづけている(オイオイ)。
 いろいろ深刻に悩んでいるが、まったく理解できない。今の14歳が本当にこうなのかどうかは知らないが、勝手に狂ってくれという感じだ。

「神童」

 さそうあきらのマンガの映画化。八百屋の息子で音大浪人生のワオ(松山ケンイチ)と、天才ピアノ少女うた(成海璃子)が出会い、互いに刺激しあう話らしい。
 原作は評判がいいらしいが、映画はお粗末で支離滅裂。
 しかし、最後まで見てしまったのは成海璃子がすばらしかったからだ。映画はゴミなのに、彼女の存在感にねじ伏せられてしまった。成海璃子が神童であることを証明したことだけに意義のある映画といえる。

2007年9月19日水曜日

「アメリカ人はどこから来たのか」

 NHKの「地球ドラマチック」で英国グラナダTV製作の「アメリカ人はどこから来たのか」が放映された。
 アメリカ先住民は氷河期にベーリンジア(海面低下で陸続きになったベーリング海峡のこと)を通ってアラスカに移住した新モンゴロイドの子孫と考えられている。氷河期のアラスカはツンドラ地帯で狩猟生活ができたが、カナダにあたる地域には広大な氷河が広がり、1万2千年前にロッキー山脈東側に無氷回廊が出現するまでは人類の進出を阻んでいた。定説にしたがえば、1万2千年以前にはアラスカ以外の南北アメリカ大陸には人類は住んでいなかったことになる。
 しかし、近年、南北アメリカ大陸に数万年前の人類の痕跡が次々と発見されている。彼らは寒冷地適応した新モンゴロイドではなく、縄文人に近い旧モンゴロイドだったらしい。
 もし縄文人だとしたら、千島列島からアリューシャン列島をたどり、カナダ西岸を南下する島づたいのルートでわたったと考えられるが、この番組ではジャイアントケルプの海中林ルートを紹介していた。
 ジャイアントケルプは昆布の一種で、百メートル以上に成長して鬱蒼たる海中林を作り、南の珊瑚礁のように多くの生物に住処を提供している。北米大陸の太平洋岸沿いのジャイアントケルプの海中林が有名だが、実は海中林はアリューシャン列島をへて千島列島沿いに北海道までつづいているという。
 ジャイアントケルプの先端は海面に達し、浮遊性の海藻がからまって、波を静めるので、ラッコが睡眠場所にしているという。海中林沿いに進めば、食物が豊富なので、貧弱な舟でも十分アメリカ大陸に到達できるそうである。
 番組ではもう一つ、大西洋を横断するルートの存在も指摘していた。
 北米大陸にヨーロッパと同じ様式の石器が出土することは『モンゴロイドの地球 第5巻』でも指摘されていたが、新石器時代に大西洋横断は考えにくいので、真剣に検討されることはなかった。
 氷河時代、北大西洋の北半分は氷床で覆われていたが、氷床の縁の部分では下降水流が発生し、海底の養分が攪拌されて豊かな漁場となるので、オットセイやトドのような海獣が集まってくる。氷床の縁沿いに海獣猟をしているうちに、北米大陸に達することは十分考えられるというのである。
 こう見てくると、アメリカ大陸に最終氷期以前から人類が住んでいたとしても不思議ではなくなる。
 しかし、ここで新たな問題が浮上する。現在のアメリカ先住民は新モンゴロイドであり、縄文人の痕跡もコーカソイドの痕跡も認められないことだ。無氷回廊が開きアラスカのマンモス・ハンターが南下した後に、アメリカ大陸の住民がいれかわった可能性があるのである。
 番組では慎重な留保をしつつも、マンモス・ハンターによる旧先住民のジェノサイドの可能性をほのめかしていた。PC的にはきわどいが、ありえない話ではない。

2007年9月18日火曜日

「祇園囃子」

 昼の祇園を普段着の栄子(若尾文子)がスタスタ歩いていく場面からはじまる。伝統と格式がものをいう花街に負けん気の強そうな栄子が一人はいっていく姿にこの映画のテーマが集約されている。
 栄子は一軒の置屋にはいっていき、美代春(木暮実千代)に面会し、舞妓にしてくれと頼みこむ。栄子の母も芸者で美代春の同輩だったが、西陣の織屋の沢本(進藤英太郎)に落籍されて栄子を生んだが、沢本の家業が左前になってわかれ、最近亡くなっていた。
 美代春は実の父親の沢本が保証人になるならというが、落ちぶれ、中風で体の自由がきかなくなった沢本は頑として保証人の判をつかない。頼まれたらいやとはいえない性格の美代春は保証人なしに栄子を引きうける。
 一年の修行の後に栄子は美代吉としてデビューすることになるが、沢本は当てにならず、美代春が支度をしてやらなければならない。美代春は懇意の料亭の女将、お君(浪花千栄子)に金を借り、支度を調える。
 栄子は持ち前の天真爛漫さでたちまち人気者になるが、楠田(河津清三郎)という大企業の御曹司に気にいられ、しかも楠田が受注を狙うプロジェクトの責任者である神崎という役人が美代春に執心したことから二人の行く末に暗雲が立ちこめる。栄子は唇を求めてきた楠田の鼻に噛みつき、美代春はお君がお膳立てした神崎の座敷から逃げてしまったのだ。
 楠田は鼻に噛みつかれた上に、受注が宙に浮いてしまい、踏んだり蹴ったり。美代春が神崎を拒否しつづけるなら、会社の存続があやうくなる。とりなしを頼まれたお君は回状をまわし、美代春と栄子を座敷に出られなくしてしまう。
 芸者といっても所詮売物買物。料亭の意向に逆らうなど考えられないことだったが、アプレゲールの栄子に触発されて、美代春も自分というものに目覚める。二人は花街のしきたりに屈せずに自分をつらぬけるのか。
 この映画の見どころは木暮、若尾、浪花という三女優の競演にある。若尾の生意気な可愛らしさ、浪花の親切ごかしの老獪さもいいが、なんといっても木暮がすごい。匂わんばかりの色香と気っ風のよさ、そして芸者としての意地が美代春を大きな存在にしている。

「赤線地帯」

 吉原の「夢の里」という店を舞台にした娼婦の群像劇で、売春防止法が国会で争点となっていた1956年3月に公開された。映画の中では売春防止法は継続審議になったが、実際は公開2ヶ月後の5月に可決されている。
 「夢の里」は特飲街組合の役員をやっている田谷倉造(進藤英太郎)とその妻の辰子(沢村貞子)が経営する女郎屋で、倉造は娼婦のことを本当に考えているのは自分たちだ、政府に代わって福祉事業をやっているんだが口癖である。
 「夢の里」のかかえる女は5人いるが、みなワケありだ。
 店一番の売れっ子のやすみ(若尾文子)は疑獄事件にまきこまれた父親の裁判費用のために娼婦になった女で、男社会に対して復讐心をもやし、なんとかしてのし上がろうとしている。あの手この手で男から金を引きだしては、仲間の娼婦に金を貸して金利を稼いでいる。貸し布団屋のニコニコ堂の主人(十朱久雄)を手玉にとって夜逃げをさせ、ちゃっかり居抜きで店を買って後釜に納まる。しかし、売春防止法が可決されたら、商売あがったりだろう。赤線を離れられないところに悲しさを感じる。
 ハナエ(木暮実千代)は結核の亭主をかかえる通いの娼婦で、子供をおぶった亭主がむかえにくるのがわびしい。眼鏡をかけてすっかり所帯やつれしていて、その上、亭主を亡くすという悲しい役である。木暮が眼鏡をかけコミカルに演じているのが救いになっている。木暮はコメディエンヌとしても一流である。
 若尾と木暮の変貌ぶりからすると「祇園囃子」から10年くらいたっていそうだが、実際は3年しかたっていない。演技力恐るべし。
 ミッキー(京マチ子)は栄公(菅原健二)の連れてきたニューフェース。ゴージャスな肉体を強調した洋装で人気者になるが、浪費家で前借りばかりしている。彼女神戸の貿易商の娘で、母親をないがしろにした父親に反発して娼婦になったといういわくがある。世間体を気にした父親がむかえにくるが、父親の女遊びをなじって追いかえす。
 より江(町田博子)は東北訛の垢抜けない女だが、結婚を約束した男がおり、すこしづつ所帯道具を買いためているが、前借がなかなか減らず、いつ結婚できるかわからない。ミッキーが前借は無効だから、逃げてしまえば警察沙汰にできないと教えたのをきっかけに、他の娼婦が協力して首尾よく逃げることに成功する。しかし、結婚生活は上手くゆかず、すぐにもどってきてしまう。
 ゆめ子(三益愛子)は満洲から息子を連れて引きあげてきた未亡人。戦死した夫の両親と息子を養うために東京に出てきて、娼婦に身を落としている。息子といっしょに暮らすことを夢見ているが、集団就職で上京した息子が店を訪ねてくると居留守を使い会おうとしない。しかし、息子は厚化粧で客に媚びる母親の姿を見てしまい、ショックを受ける。ゆめ子は息子の勤める工場に会いにいくが、息子に拒否され、最後は発狂する。
 この映画、大昔にも見ているが、今回の方がおもしろく見ることができた。日本映画全盛期をささえた大女優の競演で、こんな映画は二度と撮れない。

2007年9月15日土曜日

デュアル本

 中経出版が書籍購入者に電子テキストを提供する「ネット書籍サービス」をはじめたそうである(CNet)。
 うっかりしていたが、三省堂が「dual大辞林」として同様のサービスをすでに開始していた。辞書こそ電子データの利便性がものをいうわけで、紙の辞書離れを防ぐ決め手になるかもしれない。
 今はすべてコンピュータ組版になっているので、電子テキストはすでにあるわけである。ほとんど追加コストがかからないのだから、出版社側にもメリットがあるはずだ。問題は著者側の気分的な問題ということになる。
 認証がややめんどうのようだが、ICタグを本に埋めこんで、買ってきた本をパソコンにかざすだけで認証が終わるようにしたらどうだろう。CDをリッピングする際、自動的にネットから曲名や演奏者のデータをひろってきてくれるが、あのようなことが本でもできたらいいと思うのだ。
 またこういう利点があれば、なかなか進まない書籍のICタグ化を後押しすることにもなるだろう。

「ママの遺したラブソング」

 スカーレット・ヨハンソンとトラボルタの共演ということで期待したが、思わせぶりなだけ。教養コンプレックスみたいなものが鼻につく。ラスト、二人の関係がわかるが、白けるだけ。
 映画としてはつまらないが、スカーレット・ヨハンソンのビデオクリップとしてなら見る価値がある。時分の花というべきか、この映画のヨハンソンは立っても、座っても、歩いても、溜息が出るほど美しい。これだけ美しいと、コスチューム・プレイよりラフな格好の方が見栄えがする。

2007年9月13日木曜日

「雪夫人絵図」

 舟橋聖一の同題の小説の映画化である。
 元華族の信濃家の熱海の別荘に信州の女学校を卒業したばかりの濱子(久我美子)が奉公にあがるところからはじまる。荷を解こうとしているところに当主の訃報がはいり、濱子は雪(木暮実千代)の着替をとどけるために東京の本宅にやられる。本宅では多くの愛人が財産争いをはじめており、そこに雪の夫で婿養子の直之(柳永二郎)があらわれ、怒鳴りちらしはじめる。雪はおろおろするだけだ。
 信濃家は当主が貴族院の議長をつとめたほどの家だったが、財産税や戦後のどさくさで手を出した事業に失敗で没落し、跡を継いだ雪には熱海の別荘しか残らなかった。直之は愛人の綾子(浜田百合子)のいる京都にいったきりで、たまに熱海にもどると乱暴に雪の体をもとめ、雪は拒否できない。直之は純情な濱子にわざわざ雪との痴態を見せつけて面白がっている。
 雪には信濃家の元書生で、今は上流夫人に琴を教えている菊中(上原謙)という相談相手がいた。雪は菊中にすがろうとするが、彼はは自立しろと突きはなし、別荘を旅館にするように勧める。
 雪が宇津保館をはじめると、直之は京都から綾子と腹心の立岡(山村聰)を連れて乗りこんできて、綾子を女将にしてしまう。雪は直之に暴力をふるわれ閨に誘われると、ずるずると言いなりになってしまう。菊中はしっかりしろと口で言うだけで、何もしてくれない。
 雪は居候の身分にされてしまうが、それは直之も同じだった。綾子は立岡とできていて、宇津保館は立岡のものになっていたのだ。真相を知らされた直之は呆然自失する。すべてを失った雪は菊中が常宿にしていた芦ノ湖畔のホテルにゆき、死を選ぶ。
 なよなよとした没落華族夫人を演じる木暮はラファエロ前派の絵から抜けだしてきたようで、日本人離れしたモダンな美しさに目を見張った。ただし、モダンな見かけにもかかわらず、中味は弱さで支配する日本的なファム・ファタルである。
 そんな雪に憧れ、無邪気に支える濱子の久我ははまり役だ。彼女のイノセンスぶりも罪だが。
 直之の柳永二郎は印象に残った。愚かで醜悪な駄目男だが、生まれついての愛敬があって憎めないのだ。この映画の柳は俳優としての筒井康隆に酷似している。
 逆に上原の演じる菊中は最初は颯爽としていたが、だんだん嫌な男の本性があらわになっていく。立岡の計略で酒の醜態を見せる場面など、やはりなと思った。
 山村聰はいい人のイメージが強いが、この映画ではしたたかな小悪党を演じていて、結構はまっている。
 直之と菊中の一筋縄ではいかない造形だけでも、溝口の容赦のない観察眼がわかる。

「お遊さま」

 谷崎潤一郎の「蘆刈」の映画化だが、原作をずいぶん変えている。
 原作は谷崎とおぼしい小説家が水無瀬の中洲で見知らぬ男の昔語りを聞くという夢幻能のような趣向をとっているが、映画の方は縹渺とした幻想味を吹き飛ばしたリアリズムである。
 骨董の老舗の若主人である愼之助(堀雄二)はお静(乙羽信子)と見合いをするが、付添ってきた姉のお遊(田中絹代)の方に一目惚れしてしまう。お遊は船場の大店に望まれて嫁していて、一児を設けたが、夫に死別していた。跡取り息子を育てるために婚家に残り、その代わり贅沢を許されている身で、愼之助が望んでも結婚できる相手ではなかった。
 愼之助はお遊と会いたいためだけにお静と交際をつづけ、お静と祝言をあげるが、結婚初夜にお静から自分は姉の心を察して嫁に来たので、あなたに体をまかせては姉に申し訳ないといわれる。お静との結婚がなったについてはお遊の後押しがあったこともわかる。お遊は崇拝者を身近にはべらせるべく、お静を利用したのだ。お静は姉に利用されることによろこびを見出している。愼之助とお静は夫婦関係のないまま、お遊と三人で楽しい日々をすごす。
 しかし、お遊の息子が急死すると状況は一変する。三人の不自然な関係が問題になり、お遊は実家に返され、別の家に再嫁することになる。
 愼之助の家は左前になり、東京に夜逃げをする。愼之助はお静を本当の妻にし一粒種に恵まれるが、貧困の中でお静は死に、息子を育てきれなくなった新之助は伏見の別荘で十五夜の宴をはっているお遊に息子を託し、行方をくらます。
 この展開は映画のオリジナルで、女王様に息子を押しつけて逃げるなどという結末はマゾ男にあるまじき所行である。原作は落魄した愼之助が毎年十五夜に幼い息子を連れてこっそりお遊の宴をのぞきにくるという終わり方をしている。女王様を影ながらお慕いしつづけるのがマゾ男の正しい身の処し方である。溝口は何でも許してくれる母親を求めていたにすぎず、マゾヒズムがわかっていなかった。
 原作では初対面時に愼之助28歳、お遊23歳、お静18歳だが、田中絹代のお遊は愼之助より年上の大年増に見える。お遊は若尾文子にやってほしかった。お静の乙羽は清楚で美しいが、東京に夜逃げをしてからはたくましい地が見えてしまう。お静がたくましくては興ざめだ。