2007年6月30日土曜日

「ゾディアック」

 ゾディアック事件を追う男たちを描いた実話で、本作の後半の主人公になるロバート・グレイスミスのノンフィクションを原作としている。
 ゾディアック事件とは1960年代末に起きた連続殺人事件で、犯人がゾディアック(12星座)と名乗り、新聞社に暗号の脅迫状を送りつけたことから全米の注目を集めた。犠牲者は37人も出たが、相当部分が模倣犯の犯行ではないかと見られている。犯人はいまだにつかまっていないが、「ダーティハリー」など、この事件をモデルにした映画が何本もつくられ、ドキュメンタリーまでDVDになっている。
 本作は2時間37分という長尺であるが、最初の40分ほどはゾディアックが次々と事件を起し、「セブン」を思わせるサイコスリラー的緊迫感があるものの、あとの2時間は出口のない迷路を延々さまよいつづける。
 追う側は死屍累々で、敏腕記者は酒に身を持ち崩して会社を追われるし、やり手の刑事は脅迫状の偽装という濡衣を着せられて担当からはずされる。最後にバトンを託されたグレイスミスも生活が破綻し、妻子に逃げられる。フィンチャー監督は犯人は誰かよりも、犯人を追う男たちがいかに壊れていくかに焦点をあわせている。
 ゾディアック探しは徳川埋蔵金のようなもので、こういう無限ループにはまりこむのは男の脳の構造的欠陥なのかもしれない。わたし自身、のめりこむ性格なので、彼らの恍惚と絶望はよくわかる。男たちがなぜ蠟燭に飛びこむ蛾のように事件に引きつけられるのかは、女性にはまずわからないだろう。

2007年6月29日金曜日

『魔界転生』では生き返らない

 山口県光市の母子殺人事件差し戻し審で、被告の元少年が三日間の陳述を終えた(Sankei Web、Mainichi-MSN)。殺人とその後の死姦行為をどう言いつくろうのか興味があったが、ドラモンや『魔界転生』まで登場するあきれた内容だった。本村氏は「聞くに堪えない3日間だった」と感想を述べたが、日本中がそう感じたのではないか。
 遺体に凌辱をくわえたのは復活のための儀式だったという被告側の言い分が伝えられていたが、今回、F被告本人が意図を語った。izaから引く。


弁護人「亡くなっているのを分かった上でなぜ乱暴したのか」
被告「生き返ってほしいという思いだった」
弁護人「どういうことか」
被告「山田風太郎の『魔界転生』という本に、そういう復活の儀式が出ていた

 F被告は『魔界転生』に影響されて、精子を注入すれば死んだ女性が生き返ると考えていたというのである。
 しかし、『魔界転生』のどこにそんな話が書いてあるのか。『魔界転生』で語られるのは、死にかけた男が女と交わって自分の妄念を注入すると、妄念が女の体内で成長し、一ヶ月後に女体を卵の殻のように破ってこの世に生まれでるという秘儀である。

「この世に出でよ、田宮坊太郎!」
「――おおっ」
と、如意斎はさけんだ。
 正雪は女を唐竹割りに斬ったのではない。――ただ、そのひたいから鼻ばしら、胸から腹へかけて、うすくすじを入れただけだ。(略)
 一瞬、お類の顔からからだにかけて、赤い線が走った。そこから、顔にもからだにも八方に亀裂が散り、網の目を作ったかと思うと、その皮膚をおし破って、内部からべつの人間がニューと出現してきたのである。

 報道は被告が『魔界転生』を口実にしたと伝えるだけで、『魔界転生』が被告の言い分とは無関係だというところまではふれていない。
 それは検察官や裁判長も同じである。裁判長はF被告に単行本で読んだのか、文庫本で読んだのかと訊いてはいるが、『魔界転生』にはF被告のいうような場面はないという事実は指摘していない。
 単行本か文庫本かを訊いたのはF被告が本当に読んだのかどうかに疑問をもったからだろうが、その疑いは事件前の被告に山田風太郎を読みこなすだけに国語力があったかどうかを疑っただけであって、『魔界転生』にはF被告のいうような場面が存在しないことにはまだ気がついていないはずである。死姦という異常な行動の核心に係わるだけに、気がついていたら質問しないはずはないからだ。おそらく、裁判官も検察官も『魔界転生』が死姦の動機だという話は26日にはじめて聞いたのではないか。
 わたしはこれまで、精子を注入することによって被害者を生き返らせようとしたという詭弁を弁護士の創作と考えていたが、そうではないかもしれないと思うようになった。弁護士の創作だったら、『魔界転生』ではなく、辻褄のあう作品を選んだはずだからだ。
 といって、F被告に被害者を生き返らせる意図があったとも思わない。『魔界転生』はこの世に未練を残して死んだ男が女体を利用して生き返る話であって、女性を生き返らせるのとは正反対の発想で書かれているからだ。
 わたしは死姦の動機に『魔界転生』が関係しているのではないかと疑っている。次の条を読んでもらいたい。

 座っている彼の向こう側に、女がひとり仰むけに横たわっていた。腰のあたりは見えないが、全裸と見える。その女の顔――鼻のあたりに、坊太郎は白い手をあてている。そしてじぶんもからだを横に伏せて、顔に顔を重ねた。
「……く、く、くっ」
 女の声――いや、人間の声とも思われぬ凄惨なうめきがあがり、白い二本の足がくねった。弱々しい、しかしあきらかに断末魔を直感させる痙攣だ。その下から床にひろがっている血潮をふたりは見た。
 坊太郎の手はなお女の顔を覆っている。それは柔らかい海綿みたいにピタと鼻腔に吸着しているらしい。そして彼の口は女の口に、これまた蛭のように吸いついているらしかった。
「けくっ」
 耳を覆いたくなるうめきとともに、女の四肢はパタリと床におち、そしてうごかなくなった。それもなお数分、坊太郎は女の口からじぶんの口を離さなかった。

 強姦目的で誤って女性を殺してしまった場合、犯人は逃げるのが普通だそうである。F被告は絞殺という体力も時間もいる方法で殺した上に、苦悶の表情を浮かべ、脱糞までした被害者の死体を凌辱している。そういう状態の死体に対して性欲が起こること自体、異様である。
 F被告は強姦して、たまたま殺してしまったのではなく、最初から女性を苦悶死させ、死姦することが目的だったのではないか。そう考えるしかないのではないか。(Jul21 2007 加筆)

2007年6月27日水曜日

「鉄コン筋クリート」

 「ピンポン」の原作者でもある松本大洋が、バブル崩壊直後に連載した漫画のアニメ化である。スタッフと声優の顔ぶれがすごい。出来もすばらしい。よくぞここまで描きこんだものだ。
 しかし、今一つ面白くない。技術的にはすごいと思うが、昭和レトロをもとに生活感を強調しているのに、街にリアリティがないのだ。ストーリー展開はもったいつけすぎで、もっさりしている。
 再開発から街を守るためにアウトローの少年たちが戦うというストーリーだが、街の住民を置いてきぼりにしてしまっているのである。抽象的な「街」概念をネタにアクションをやっているだけという印象なのだ。
 街を愛したがために組織を裏切って殺されるネズミというヤクザが出てくるが、要となるキャラクターのはずなのに存在感ゼロ。上っ面のカッコウだけつけて死んでいくが、「街」にリアリティがないのだから、いくら田中泯を声優に使っても駄目である。

2007年6月26日火曜日

第19回ICPFセミナー「政府の知的財産戦略」

 第19回ICPFセミナー「政府の知的財産戦略」を聴講してきた。ゲストは内閣官房知的財産戦略推進事務局の大塚祐也氏。
 大塚氏は首相官邸サイトで公開されている「知的財産推進計画2007」のまとめにあたった人で、前半は立て板に水の講演だったが、これといった中味はなかった。レジュメが公開されているが、これに尽きている。
 後半、質疑に移ると、のっけから数字の詐術を指摘されて立ち往生。レジュメ15頁にGDPに対するコンテンツ産業の規模の比較があり、日本は2.66%で世界平均の3%より低いと大塚氏は危機感を煽っていたが、これは一国だけ突出したアメリカを含んだ平均である。アメリカを除いた世界平均は2.4%になり、日本は平均を上回っている。アメリカが突出しているのは英語によるところが大きい。
 大塚氏は音楽などは言語に関係ないと反論を試みるが、最近の音楽にはほとんど歌詞がついているという指摘を受けて、またも立ち往生。
 現行著作権法ではサーチエンジンの検索サーバーを日本国内に置けないので、検索サーバーを著作権法の例外にする話がもちあがっていて、「知的財産推進計画2007」の重点編にも挙げられているが(21頁)、これが間違いという指摘も出た。著作権法には日本国民(法人を含む)の国外犯の規定があるので、日本法人がある以上、検索サーバーを日本国外においても引っかかるというのだ。
 わたし自身、著作権法の壁のために日本では検索サービスがはじめられないという説を信じこんでいたが、いわれてみればその通りだ。著作権のあるCDやDVDを勝手に製造したら、国内でプレスしようと国外でプレスしようと、違法であることに変わりはない。検索サーバーも同じことである。ネットでは常識になっているとのことだったが、わたしは知らなかった。
 Yahooの検索サーバーは国内にあるという話も出たが、知財本部ではそのあたり、まったく把握していなかったそうで、大塚氏は呆然としていた。
 以上は枝葉の議論だが、この後、知財本部の認識は時代遅れだという根本的な批判があいつぎ、吊るし上げの様相を呈した。ICPFセミナーは糾弾集会になることが多いが、今回は特にひどかった。大塚氏はなにも言い返せず、最後は涙目状態だった。
 次回は文藝家協会の三田誠広氏がゲストだという。三田誠広氏は著作権延長の先頭に立っているから、今回以上の一大糾弾集会になるのは間違いない。三角帽子をかぶせられ、ジェット式ぐらいはやらされるかもしれない。もちろん、見にいくつもりだ。

「燃えつきた地図」

 安部公房の代表作の映画化である。監督は勅使河原宏、主演は勝新太郎。
 安部公房原作にしてはアクション的な要素のある作品なので、勝新太郎主演もありということになったのかもしれないが、この配役は逆効果だった。主人公の探偵がボコボコに殴られる場面がいくつかあるが、なにも反撃しないのである。勝新太郎がおとなしく殴られているだけなんて、見ていてイライラしてくる。
 しがない探偵なのでスバル360を足に使っているが、勝新太郎が小さなスバルでは格好がつかない。渥美清を助手席に乗せて走る場面があるが、小さな車に勝と渥美の巨大な顔が二つ正面向いて並ぶ図は悪い冗談だ。
 市原悦子のエロチックな場面とか、イモっぽかった頃の吉田日出子とか、見てはいけない映像が出てくる。
 唯一格好いいのは探偵の妻役で出てくる中村玉緒。この頃はまだ松たか子と同じ美人路線を歩んでいた。ここで離婚していれば、バラエティ・オバサンにはなっていなかったかもしれない。

「顔役」

 勝プロ作品で、勝新太郎が製作・脚本・監督・主演をかねている。豪華キャストだし、勝新太郎としては渾身の力をこめたのだろうが、意欲ばかりが空回りする結果となった。見ていてつらいものがある。
 主人公はマル暴の刑事。彼は外部の圧力に絶対屈しないという上司(大滝秀治)の言葉を信じて暴力団の壊滅作戦にとりかかるが、政治家から圧力がかかると上司は逃げだし、彼も警察を辞めなければならなくなる。民間人になった主人公は手打ちでいったん納まった抗争を謀略で再燃させ、最後に組長を車ごと砂に埋めてしまう。前半はリアルな刑事物だが、後半はファンタジーである。
 普通に撮れば前半は見るに耐えたと思うが、接写を多用しているためにストーリーにはいれず、肩が凝ってきた。接写は素人監督が藝術と勘違いしてよく使う手法だが、映画を知りつくした勝がなぜこんなアホなことをやるのか。安部公房作品に主演したがったのも痛いが、インテリ・コンプレックスがあったのだろうか。インテリなんかより勝新太郎の方が段違いに偉いのに。
 どうしようもない映画だが、太地喜和子が勝に誘惑される場面と、若山富三郎が仕切って手打ち式をする場面だけは光っていた。

2007年6月25日月曜日

日本人の脳?!

 産経新聞に「最新の脳科学にみる「日本人」」という記事が出ている。
 エディトリアルのMar04 2007で、欧米人や中国人、韓国人は虫の鳴き声や風音などの自然音を右脳で処理するのに対し、日本人は言語と同じ左脳で処理するというテレビ朝日の「素敵な宇宙船地球号」という番組を紹介したが、産経には正反対のことが書いてある。


 「日本人だけが左脳で虫の音を聞いていることを証明した画像実験はありません」。取材に応じてくれた複数の脳科学者たちはそう断言する。

 一方、「地球号」では日本人だけが左脳で虫の音を聞いているという首都大学東京大学院の菊池吉晃氏の研究を紹介し、根拠となるPET画像も画面に映しだされた。「地球号」のホームページから引く。

 コオロギの鳴き声に、欧米人は他の音と同様、右脳が反応しますが、日本人は左脳が反応していました。菊池教授は、日本語が母音主体の言語だからだと考えています。虫の音や川のせせらぎなどの自然音と母音の音の成分がほぼ同じなのだそうです。この共通性から、日本人は自然の音を意味のある「言葉」、感情的な音として聞いているのです。

 いったいどちらが正しいのだ。両者とも断定的に語っているが、本当はまだ決着がついていないということなのか。
 産経新聞はぜひ菊池氏を取材してもらいたい。

2007年6月22日金曜日

「ユメ十夜」

 夏目漱石の『夢十夜』を10人の監督が撮ったオムニバス。
 大半の作品が原作にこだわらず、自由勝手に映像化しているが、予算をかけた割りにはつまらない。
 唯一おもしろかったのは第二夜の市川崑で、これだけが原作通りで低予算なのは皮肉だ。

「にごりえ」

 樋口一葉の「十三夜」、「大つごもり」、「にごりえ」を今井正が映画化したオムニバス。文学座との共同制作なので、若い頃の北村和夫や岸田今日子がチョイ役で顔を出している。
 この映画の制作された1953年は日本映画が絶頂をむかえた年で、小津安二郎の「東京物語」と溝口健二の「雨月物語」も公開されているが、キネ旬ベスト10と毎日映画コンクールは両作品をおさえ、本作が一位をとった。
 以下、三つのエピソードを紹介する。

「十三夜」
 名家に望まれて嫁いだお関(丹阿弥谷津子)は夫の横暴に耐えかねて実家にもどってくるが、父の主計(三津田健)に諭され婚家に帰る。その時乗った人力車の車夫はお関の幼なじみの録だった。録は煙草屋の跡取り息子だったが、関が嫁いだ後、生活が荒れ、今は車夫に身を落としていた。
 今の日本では失われてしまった会話の妙と立ち居振る舞いの美しさに息を呑む。明治の日本人がなぜ欧米人に一目置かれていたかがよくわかる。
 書割だろうが、仲秋の名月に浮かびあがる東京の夜景色が心に染みる。

「大つごもり」
 みね(久我美子)は親を喪ってから伯父の安兵衛に育てられ、今は資産家の山村の家で女中奉公をしている。山村家は強欲な後妻のあやが仕切るようになってから女中がいつかなかったが、みねはけなげに働いている。
 みねが伯父の家に里帰りすると、伯父は体をこわし借金で困っている。みねは御新造にお願いしてみるという。あやはいったんは貸すというが、大晦日になってみると、そんな約束をしたおぼえはないととぼける。みねは困り果て、つい主家の金に手を出すが……
 久我美子が輝いている。この作品の前後に公開された「あにいもうと」でもそうだったが、この人は本当はお姫様なのに、けなげに働く貧しい娘をやらせたら天下一品だ。

「にごりえ」
 「菊之井」の酌婦お力(淡島千景)は結城朝之助(山村聰)という気前のいい客もでき、陽気にふるまっていたが、内心、咎めるものがあった。かつて馴染みだった蒲団屋の源七(宮口精二)はお力にいれあげるあまり、身代をつぶしてしまい、今も執拗にお力につきまとってくるのだ。裏長屋に移った源七は女房(杉村春子)を離縁してしまい、悲劇的な結末に向かう。
 ドロドロしかねない話だが、淡島の涼やかな色気のおかげで哀れ深い作品になっている。暗示的な結末も余韻を深めた。
 三本に共通していえることだが、日本映画全盛期の女優には気品があった。今の日本の女優はどうしてこう品がなくなったのだろう。

2007年6月20日水曜日

「あるスキャンダルの覚え書き」

 ゾーイ・ヘラーの小説の映画化で、ジュディ・デンチとケイト・ブランシェットという二大オスカー女優が競演している。
 デンチは「アイリス」ではケイト・ウィンスレットを横綱相撲で一蹴したが、ケイト・ブランシェットはデンチに跳ね飛ばされながらも、土俵際ぎりぎりで踏みとどまっている。同じケイトでも、ブランシェットの方が粘り腰だ。
 デンチ演じるバーバラはオールドミスの歴史教師で、学校のヌシ的存在だ。バーバラの勤務する学校は労働者階級が多いが、場違いのようなブルジョワ夫人のシーバが美術教師として赴任してくる。シーバの美貌と華やかな雰囲気に教員も生徒も魅了され、彼女の話題でもちきりになる。
 シーバは子供が手を離れてから教員になったので、生徒たちが荒れだすとなすすべがない。バーバラが教室の騒ぎをおさめてやったことから、二人は急速に親しくなる。バーバラはシーバの夫が大学時代の恩師で、20歳以上も年が離れている老人であること、息子がダウン症で、気分転換のために教職を希望したことを知り、日記帳に書きつける。
 クリスマスの行事のあった日、バーバラはシーバが15歳の教え子と美術室で関係をもっていることを見てしまう。シーバは誰にも言わないでくれと懇願する。バーバラは秘密を守る代わりに、シーバを自分の思い通りに操縦しようとする。
 ここからが凄い。猫が鼠をいたぶるように、猫しか生き甲斐のない労働者階級出身の寂しく醜い老嬢が、ブルジョワ階級出身の夫と子供のいる美しい夫人をいいように振りまわし、その経過を日記に事細かに書きつけていくのだ。
 後半、事態は急展開し、最後まではらはらする。見るべし。